僕の名前は健二。地方の小さな広告代理店で働いています。これは、ある夏に僕が経験した出来事です。仕事のストレスを発散しようと、いつも通り山登りに行こうと考えていました。その日は特に目的地を決めずに、車を走らせていると、ふと山中にあると噂の「忘れられた神社」のことを思い出しました。それは、地元では「触れてはならない聖域」として言い伝えられ、行くことを禁じられている場所でした。しかし、好奇心に勝てず、僕はその神社へ足を運ぶことを決意しました。
ナビや地図には載っていない場所なので、地元民から聞いた話を頼りに進むしかありませんでした。山道を何度か車で往復し、ようやくそれらしい場所にたどり着いたときには、日が暮れかかっていました。駐車スペースに車を停めると、静寂が支配する中、臆することなく歩き始めました。
鳥居をくぐると、辺りの雰囲気がガラリと変わりました。目の前には、今にも崩れ落ちそうな古びた参道が続いています。苔むした石段の上には、長い間人の手が入っていない。その荒れ果てた光景に神秘的なものを感じました。無意識のうちに、ここに踏み込んでいいのか自問しましたが、その時にはすでに戻るつもりも失せていました。
石段を上りきると、小さな鳥居があり、その奥にひっそりとたたずむ本殿が見えました。おそらく何十年も手入れされていないのでしょう。木材は朽ち果て、草木が侵食していました。それでも僕は歩みを止めず、神域へと足を進めました。
突然、空気が一変しました。風は止まり、周囲が不気味な静けさに包まれます。そして、その刹那、背後から冷たい視線を感じたのです。振り返ってもそこには誰もおらず、ただ一面に広がる鬱蒼とした森があるだけ。汗が背中を冷やし、この場から逃げ出したい衝動にも駆られましたが、何故か足が動きませんでした。
ようやく本殿の前にたどり着くと、無意識に手を合わせていました。この場に足を踏み入れた非礼を詫びる気持ちがあったのかもしれません。その時、何かが耳元で囁いたような感覚がありました。その声は、僕の名前を呼んでいるようにも感じられ、慌てて周囲を見渡しましたがやはり誰もいない。
そのまましばらく固まっていたのですが、意を決して帰ることを決意し、来た道を戻り始めました。登ってきた時とは異なり、妙に長く感じる参道を何度も足を滑らせながら下っていると、再び冷たい視線を感じました。背後には、真っ白な顔をした人影が立っていました。彼の目は、まるでこちらの魂を見透かすかのように、不気味な光を放っていました。
咄嗟に逃げ出そうとしたものの、身体が動かず、声も出ませんでした。ただその場に立ち尽くすしかありませんでした。その人影は、まるで風に消えるように忽然と姿を消し、何事もなかったかのように静寂が戻りました。僕は震える手でスマートフォンを取り出し、時間を確認しましたが、何故か時計の針は全く動いていないことに気づきました。
ようやくの思いで車にたどり着き、エンジンをかけたと瞬間、時計が突然動きだしました。そして、その時気がついたのです。神社に入ってから、3時間以上が経過していたことを。ほんの数十分程度のはずが、長い時間が経っていることが信じられませんでした。
その夜、家に帰った僕は、不安で眠れぬ夜を過ごしました。ベッドに横たわっても、ふと背後に気配を感じることがあり、何度も振り返りました。しかし、そこには誰もいない。ただ、あの神社での出来事が頭から離れず、不安と恐怖に支配されました。
その後、地元の古老に話を聞きに行ったところ、あの神社はかつて、その地域で疫病が流行った際に多くの人々を鎮めるために封じられた場所だと言います。そのため、決して踏み入れてはならない場所とされていたと聞かされました。
僕は、あの時の好奇心を悔やみました。二度とあの場所には行かないと誓いました。未だに時折、耳元で名前を呼ばれるような気がすることがあり、その度に、触れてはならない場所に足を踏み入れた代償を痛感しています。あの神社は、今でも僕にとって解けない謎の一つであり、決して忘れることのない、恐怖の体験でした。