忘れられた村の囁き

違和感

森の奥深くに佇む小さな村、その名も忘れ去られたかのようなひっそりとした集落がある。訪れる者もほとんどなく、時折風が木々を鳴らし、孤独な鳥の声が響くばかり。村の住人たちは皆、無口で無表情、何か秘密を抱えているかのような陰鬱さを漂わせている。新緑の季節ですら、薄暗い雰囲気を纏ったその村に、ある日一人の旅人が足を踏み入れた。

その彼は、都会の喧騒から逃れるように、安心を求めて日本中を旅する青年だった。村の入口に到着すると、彼は不思議な気配を感じた。鳥の囀りがピタリと止み、木々も風も静まり返っている。まるで彼の出現を待ちわびていたかの如く、村が一体となって青年を見つめているような感覚だった。

彼は村の中心にある小さな宿に泊まることにした。宿の主人は長い白髪と深い皺が印象的な老婆だった。彼女は無言で彼を迎え入れ、その古びた手で彼の肩を軽く叩きながら、微笑むでもなく口を開くでもなく、ただ頷いた。その佇まいはどこか年輪を感じさせ、何か知っているかのような目をしていた。

部屋に通された彼は、外の異様な静寂と宿の中の損なわれた平穏の間に漂う、薄っすらとした違和感に気付いた。窓から覗く景色は一見普通なのに、何かが異常だと感じさせる何かがあった。草木の揺れ方、光の差し込み方、微細な空気の流れ、小さき変化の中に潜む不調和が、彼の心をざわつかせ、安寧の欠片を奪い去る。

夜になると、彼は村を歩いてみることにした。星々が無数に輝く満天の夜空は美しく、寒気すら感じさせたが、その美しさの裏に隠れる何かが、何故か彼を不安にさせた。村の通りを歩いていると、不思議なことに誰ひとり出会うことがなく、まるで村全体が息を潜めて彼を見守っている錯覚に陥った。

ふと、古びた洋館の前に立ち止まった。家の中から漏れるかすかな光に引き寄せられ、彼は思わずその家の門を開け、足を進めてしまった。家の中には、古い調度品や時代を感じさせる家具が並び、どこか生活感が欠けたような印象を受けた。

「ここに人が住んでいるのか?」—彼の脳裏に、不可解な疑問が浮かぶ。その時だった、微かな声が聞こえたのは。耳を澄ませば聴こえてくる、微かに響く囁き声。それは言葉というよりも、響きの連なり、抑揚の無い語りかけのようだった。彼はその声の方向を辿り、家の奥へと歩みを進めた。

古びたドアを開けると、驚くべき光景が彼の目に飛び込んできた。部屋の中央に、村の住人たちが集まって座っている。しかし、皆一様に、誰とも目を合わせることなく、ただ無言でそこに座り続けている。そして、その背後に立つ一人の少女、彼女だけは彼をまっすぐに見つめていた。

「あなたも来たのね。」少女は微笑むでもなく、ただ静かに、しかし確かに語りかけた。彼女の声はどこか滑らかで、安らぎを感じさせるものでありながら、同時に異様な寒気を彼に及ぼすものでもあった。彼は圧倒され、何も言えない時がしばらく過ぎ去った。

その静寂を破ったのは、彼女が言った一言だった。「この村では、何もかもが見えるけれど、誰も見ていないのよ。」

意味を理解しようとするほどに、その言葉の重みは増し、彼の心は不穏な予感に満たされていく。視界がぼやけ、彼は目を擦った。気づけば、村の住人たちは全く動かずに静止していた。息を呑む静寂が部屋を支配し、瞬間的に彼の中の時間が止まった。

更なる奇妙さに気付いたのは、その時だった。彼の周囲の空間がどこか歪んでいるように見えた。部屋の壁が、床が、そして村全体が、彼にとってまるで他人事であるかのように、ありえない角度で揺れ動いていた。何もかもが一瞬にして崩壊し、変わり果て、彼を包み込んだ。

彼はその異様さに呆然となり、自分がもはや現実のものではない世界に立っていることを悟る。そこに立っていたはずの住人たちの姿が徐々に薄れる。少女も消え、代わりに淡い霧が彼を包み込んだ。森の中、冷たさが彼を蝕む頃、彼は「ここは、どこなのか」と問いかけた己に、ふと気付く。

そして、静寂の中から聞こえたのは、あの囁き声。どこか切なく、懐かしさすら感じさせるその声が伝えたのは、「あなたは永遠にこの村の一部となった」との言葉だった。

震えながらも、彼はその意味を噛み締め、この村の謎の闇に吸い込まれていくような感覚に襲われた。それは不気味で、不吉でありながらも、どこか心地よさすら伴う——奇妙な感覚だった。

全てが静まり返った時、彼の意識は微かに薄れ行き、ただその村に漂う不気味で欠落した物語の一頁となる。彼がかつて感じた違和感は、今や安堵へと変わっていた。まるで、そこにいるべくしていたかのように。彼、そして村の秘密は、夜空に溶け込んだ。

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