忘れられた村の伝説と森の秘密

妖怪

村の奥深く、密やかな森に囲まれた小さな集落があった。その場所は、かつて多くの訪れ人で賑わっていたが、ある時を境にして誰も寄り付かなくなった。ふと、秋の冷たい風に乗って語り継がれる伝承があった。その話に耳を傾ける者は、もはや皆無に等しい。しかし、その物語は、長らく村の人々の心を縛り続けていた。

秋のある夕刻、老人が村のはずれにある、かつて祠があったとされる場所に向かって、一人きりで歩んでいた。彼の名は田中源一。彼は幼い頃から、この場所に何らかの畏怖を感じつつも、いつも心の奥底に隠された秘密へと惹かれていたのだった。

その地は、繁茂する樹木に覆われ、一筋の月明かりすらほとんど届かないほど、鬱蒼としている。静寂がすべてを支配し、木の葉のささやきすら、何か悪しきものが囁いているかのようだ。

源一は、祠があったという場所の手前、石畳が不揃いに敷かれた小径を辿っていた。そこには伝説の妖怪「ヤツメ」が現れるという言い伝えがあり、その姿は、滅多に人には見せないが、一度その目にした者は二度と戻らぬという。ヤツメの存在は、この村をかつて救ったと言われているが、その真相は誰も知らない。

「誰が最初にこの話をしたのかね…」

源一はひとりごちた。言葉がひとつ漏れるたび、その音が周囲の闇に吸い込まれていく。この世ならざる存在がそこに潜んでいるのではないかと思わせるほどの深い闇。古びた伝承が囁かれるような感覚に、彼の心は次第に浸食されていった。

やがてたどり着いた場所には、かすかに石の祠の名残が見て取れた。それは、何度も天と地の悲しみを見守ってきたかのように、崩れ去り、森の一部として静かに息づいている。源一は、その祠に手をやり、表面の苔を優しく撫でた。ここには、何か大切な物があるように思えてならなかった。

彼がその沈黙の歴史の一部に触れた瞬間、冷たい風が突然周囲を駆け抜け、森はざわめき出した。一瞬、辺りが歪んだかのように感じ、彼はばっと顔を上げた。そこには、かすかに何者かの気配があった。葉の間から覗く月の光が、彼の背後に長い影を作った。

振り返ったその先に立っていたのは、一人の白髪の少女だった。ただその姿は、はっきりしておらず、あたかも霧の中から現れた幻のよう。か細い声で、その少女は村の伝承について問うた。

「なぜ、この村は何もかもを忘れ去ってしまったのですか?」

源一はその問いに明確な言葉を返すことができなかった。彼女の眼差しには、ただならぬ力があり、彼の心の奥に潜む恐怖をじわじわと掘り起こしていく。その問いは、ただの言葉ではなかった。村の中に潜む、何かを探るようなきらめきであった。

彼女は微かに微笑み、不意に消え去った。彼の周囲には再びしんとした静寂が訪れ、ただ森の音だけが響いていた。源一は立ち尽くし、長い間その場を離れることができなかった。

その後、村に戻った源一は、何も語らなかった。誰も彼に尋ねる者はおらず、彼自身もその出会いを夢の中の出来事と捉えざるを得なかった。しかし、心の中では、あの少女こそが村の伝承ヤツメではないかという考えが消えずに残っていた。そしてその後も、源一は何度となく森を訪れ、その度に同じ場所で白髪の少女に出会うこととなる。

やがてある日、源一は年老い、村を離れることができなくなった。しかし彼は、森での出会いを生涯の宝として心に刻み続けた。村の伝承が少しずつ忘れ去られていく中で、彼だけが、その古い物語と共に生き続けたのだった。

彼の死後、村には静けさが戻り、誰も再びあの森を訪れる者はいなかった。そして今でも、夜空に月が浮かび上がる時、森の奥深くには、かつてこの地に宿り続けた物語が、そっと潜んでいると言われている。それは言葉では表せぬ恐怖と共に、人の心に魅惑と戦慄を同時に呼び起こすもの。

ある秋の日、再びこの地を訪れる者が現れるその日まで、森は静かにその秘密を抱き続けている。奇しくも、人ならざる者の存在が、今なお村の伝承を語り継ぎ続けるのであった。

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