忘れられた故郷の幻影

違和感

彼は、都会の喧騒を離れ、久しぶりに訪れた故郷の小さな村を歩いていた。道を覆う深い緑と、古い木造の家々が並ぶ風景は、かつてのままのはずだった。しかし、どこか説明のつかない違和感が彼の心にまとわりついて離れなかった。

村の中央にある小さな神社へと続く石畳の道を歩くと、その静けさが耳を圧迫するようだった。風の音さえ聞こえない。ただ、彼の足音だけが響く。神社の鳥居をくぐると、かすかに葉擦れの音がして、視界には苔むした境内が広がった。苔の緑がいやに鮮やかで、不自然なほどに目を引いた。

彼は、本殿へと向かう階段を登りながら、幼い頃、祖父に連れられここで祭りに参加したことをぼんやりと思い出していた。だが、その記憶も、今となってはどこかしらに配置されたパズルのピースのように不明瞭で、はっきりとした形を持たない。

本殿の前に立つと、彼はふと誰かに見られているような気配を感じた。振り返ると、背後には先程通ってきた石段が続いているだけで、誰の姿も見えない。しかし、その場の空気が妙に重苦しく、彼の胸の中には漠然とした不安感が広がっていった。

そんな違和感を振り払おうと、お賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らす。その音は小さく短く空気の中に消えるようで、頼りないものだった。彼は手を合わせ、目を閉じる。すると、瞼の裏に、記憶の中の祭りの光景が浮かび上がる。神輿が揺れ、提灯が灯り、賑やかな屋台の声。しかし、それらの風景はどこか色褪せて見える。

お祈りを終え、彼は目を開けた。背筋に冷たいものが走った。目の前には、いつの間にか巫女が立っていた。白い衣に赤い袴、ゆらゆらと揺れる長い黒髪。彼女の瞳は暗闇に沈んだような深い黒で、直視するのがどこか躊躇われた。彼女はかすかに微笑んでいたが、その表情には何か人間離れした奇妙さがあった。

「久しぶりですね」と、巫女は穏やかな声で言った。しかし、その声にはどこかしら温度がない。彼はどう返事をするべきか一瞬迷ったが、結局は曖昧に頷いた。

彼はそのまま巫女と短く会話を交わすが、話が進むごとに、そのズレが彼の心に不穏を生み出していく。彼女は彼のことを、まるで旧知の友人のように知っている様子で話しかけてくるが、彼にはまったく心当たりがない。それに気づいた彼は、彼女に直接尋ねることなく、会話を打ち切ることにした。

神社を後にした彼は、村の中を再び歩き始めた。しかし、周りの風景にどこかしら歪みを感じずにはいられなかった。道を歩くにも関わらず、彼の足元には影が感じられなかったり、遠くに見える家々が少しずつずれたように傾いているように見えた。

夕暮れ時、彼はかつて祖父母が住んでいた家にやってきた。外観は当時のままだが、何かが違う。木の柱の色が抜け落ちているのではなく、影が異様に黒く沈み込んでいる。閉ざされた障子の向こう側からは、誰かがいるような気配を感じたが、訪れると家には誰もいないと知された。

夜更け、彼は村に一軒だけある古びた旅館に泊まることにした。布団に入っても眠れないまま、天井を見つめていると、またしても不安が募ってくる。心のどこかで、自分が本当にこの場所に帰ってきたのか、そもそもこの場所が自分の知っている場所なのか疑問を抱かずにはいられなかった。

無理やり瞼を閉じて、やがて眠りに落ちた。夢の中で彼は再び神社に立っていた。今度は境内には幾人もの人がいて、祭りが行われている。しかし、人々の顔はどれも曖昧で、焦点が合わない。周りの空気が波打つように揺れ、彼はその中でただ立ち尽くしていた。

目が覚めたとき、窓の外は微かな霧に包まれ、村全体が白いヴェールの中で静まり返っていた。音も色も、すべてが消え去ったような世界の中で、彼は自分が何を探しにここへ戻ってきたのか、無性に知りたくなった。

違和感の正体を突き止めるべく、彼はもう一度あの神社を訪れることにした。朝の冷気の中、足を進める彼の背中には、相変わらず影がついてこない。境内に着くと、例の巫女が再び彼を出迎えた。しかし、彼女の姿もまた、どこか薄れている。

「どうしても帰ってきたかったんですね」巫女の声は、今度はどこか遠い。それでも彼女は微笑んでいた。彼は勇気を振り絞り、その違和感の正体を尋ねようとした。でもその瞬間、自分の言葉が声に出ないことに気づいた。口を開いても何も聞こえない。彼女の笑顔がどこまでも広がっていく。

そして、彼は思い出した。今、自分が立っているこの場所が、既に完全に彼の知っている村ではないことを。周りを見渡せば、あたり一面の景色は、まるで水面の下で揺らめく影のように、もはや彼の手の届かない場所へと溶け込んでいく。

その瞬間、一つの理解が彼の心に突き刺さる。この村にあるのは、もはや彼の記憶の断片でしかなく、それはいつかの彼が残し、忘れてしまった幻影であることを。彼は、今この村にいること自体が、すでに虚構の中に紛れ込んでしまったのだと感じた。

やがそれが、どうしようもない過去の残響であることを、彼は思い知るのだった。彼が背を向けて去っていくと、巫女はただ静かに見送った。

そして、村の景色は再び、夢の中の祭りのように淡くぼやけていった。彼は二度とその村を振り返ることはなかったのだ。

タイトルとURLをコピーしました