木立の奥に佇む古びた山荘。そこは古い記憶の断片が漂うかのように、訪れる者に静かに訴えかけてくる場所だった。ある小雨の降る日、若い作家の田所は、都会の喧騒から逃れるためにこの山荘を借りることにした。
到着した時、山荘は静寂に包まれていた。薄曇りの空からぽつりぽつりと落ちる雨粒が、木製の窓枠を軽やかに叩いている。田所は一人で荷物を運び入れ、中に入ると、古い木の匂いが鼻をついた。それは、何年もここでの時を刻んできたこの家の息遣いのようにも思えた。
家の中は整理整頓されており、前の住人が残した物はほとんどない。しかし、どこか表面上の整然さとは裏腹に、何かが潜んでいるような、説明のつかない違和感が田所の心を掠めた。彼は一人苦笑いを浮かべ、長旅の疲れを癒すためにソファに腰を下ろした。
その夜、田所は不思議な夢を見た。夢の中で彼はどこか見知らぬ場所に立っていた。周囲は霧に覆われ、その向こうからはかすかな囁き声が聞こえてくる。その声はまるで、古い友達が秘密を打ち明けようとする時のような、親しみとも不気味さともつかぬ調子で響いた。夢と意識の狭間で、田所はふと目を覚ました。暗闇の中、彼はベッドから起き上がり、静まり返った山荘を見渡した。
翌朝、田所は窓の外に目をやった。霧は晴れ、朝陽が木立の隙間から差し込んでいる。しかし、どこか空気が重苦しい。何かが違う――初めてこの場所に足を踏み入れたときから感じていた妙な感覚が、一層彼の心をざわつかせたのだ。
その日、彼は執筆に取り掛かるが、なかなか集中できない。ふと窓の外を見ると、一瞬誰かの影を見たような気がした。慌てて外に駆け出すが、そこには誰もいない。ただ、ひとひらの枯れ葉が風に舞うだけだった。
夕暮れ時、山荘の周りを散策してみることにした。森の中を進むにつれて、踏みしめる落ち葉の音がやけに耳に響く。心のどこかで何かを期待し、また何かを恐れている。ふと見上げると、木々の隙間から夜空がちらりと見えた。満月の明かりに照らされ、冷たい風が彼の頬を撫でる。
その時、彼は微かに自分の名前を呼ぶ声を聞いたように感じた。振り返ると、そこには誰もいない。ただ、ひときわ大きな木がぽつりと立っているだけだ。田所は思わずため息をつき、来た道を戻ることにした。
帰宅すると、彼の心には未だに不協和音が響いていた。その夜もまた夢を見た。今度の夢では見ることのない場所、聞くことのない音がぐるぐると頭を駆け巡る。そしてまた目覚めると、山荘の静けさだけが彼を包んだ。
日が経つにつれ、田所は山荘に慣れるどころか、心のざわめきが増していくのを感じた。何かがおかしい――気付けば、彼はこの違和感に苛まれることが常となった。何が真実で、何が幻想なのか。いつしか、その境界が曖昧になっていく。
最後の夜、彼は眠れぬままベッドに転がっていた。窓の外では風がうねり、遠くで何かが囁くような音がする。ふと、田所はベッドの下から何かが自分を見ているのを感じた。恐る恐る覗き込むと、そこには驚くようなものは何もない。ただ、彼は気配に飲まれるように、再び夢の世界に引き込まれた。
その夢の中で、彼は再び霧に覆われた場所に立っていた。声が近づいてくる。今度ははっきりと聞こえる。その声は、これまでに聞いたことのない響きで、しかしどこか懐かしさを感じさせるものだった。声は彼に告げた。「ここは、お前自身の心の中だ」と。
目が覚めると、初めて訪れた時から感じていた違和感の正体がわかった。山荘は彼そのもので、彼の心を映す鏡だった。この場所は彼が作り上げた幻想だったのだ。理解した瞬間、田所は不思議と穏やかな気持ちに満たされる。違和感は消え、朝日が部屋に優しく差し込んだ。彼は静かに微笑み、再び執筆に向かう。この山荘が新しい物語の始まりになることを、彼は確信していた。