彼女は小さな部屋に座って、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。薄暗い光の中で、画面に映し出されるSNSの通知が一つ一つ点滅して、彼女の心臓をじんわりと締めつける。「またか」と、彼女は静かにため息をついた。
そのアカウントが現れたのは数週間前のことだった。初めは小さな違和感に過ぎなかった。間違ってタグ付けされた投稿や、コメントに見知らぬ名前が混ざっていることがあっても、彼女は気にしなかった。しかし、それらが日を追うごとに増えていくにつれ、彼女の中の不安がじわじわと膨らんでいった。
そのアカウント名は「影の観察者」。曖昧でありふれた名前だが、不気味なほど彼女の生活にしつこく現れるようになった。最初は誰かのいたずらだと思っていた。しかし、投稿される内容が次第に彼女のプライベートな瞬間を捉え始めたとき、恐怖がじんわりと忍び寄ってきた。
例えば、彼女がカフェで友人と過ごしたとき、その瞬間を盗撮したかのような写真が投稿され、「君が飲んでいるラテは美味しい?」とコメントが付けられていた。他にも、夜の街を歩く彼女の後ろ姿が映る写真が投稿され、「帰り道は気をつけて」と書かれていた。知らない誰かが、彼女のことを見ている。その事実が、彼女の背筋を冷たく這う感覚で覆っていく。
彼女は思い切ってアカウントをブロックし、設定を非公開にした。だが、その努力もむなしく、新しいアカウントが次々と現れる。まるで、彼女の行動を監視する目がどこにでも存在すると言わんばかりに。そして、それは日に日にエスカレートしていった。
ある晩、彼女が眠れずにベッドの上で身をよじっていると、スマートフォンが振動し、画面が明るく光った。そこには新しいメッセージが届いていた。「眠れない夜にお付き合いしましょうか?」それはまるで、部屋の中から彼女に語りかけてくるようだった。動悸が激しくなり、手が震える。部屋には彼女しかいないはずなのに、そのメッセージは、どこか至近距離から発せられているように感じた。
なぜここまで見られているのか。誰が、何のために。彼女はその正体を明かすために、小さな探偵のように行動を始めた。SNSのフィードを遡り、共通の知人や過去の接点を洗い出す。しかし、どれも糸の切れた凧のように手がかりがない。それでも、彼女の毎日は慎重に、まるでガラス越しの世界を歩いているような感覚で過ぎていった。
そしてある日、一通のDMに心臓が跳ね上がった。「知りたいことがあるなら、公園のベンチに座って待っていて。」そのアカウントを見て、いつもの未知の恐怖ではなく、何かしらの解決に繋がるのではという期待感が彼女を包んだ。彼女は勇気を振り絞り、その指示通りに公園へ向かった。
夜が近づき、冷たくなった風が彼女の顔を撫でる。指定されたベンチに腰を下ろし、周囲を見渡したが、誰もいない。しばらく経っても訪れる誰かの気配はない。彼女はふと目を閉じ、聞こえてくる微かな音に耳を傾けた。
そのとき、背後でカサコソと草が揺れる音がした。彼女は立ち上がって振り返る。そこには、小さなカメラを持つ若い男が立っていた。彼は目を合わせず、手を震わせていた。「ああ、ここにいるのか」と、彼女は思わず声をあげた。
彼はゆっくりと近づき、ひどくおどおどした様子で何かを伝えたかったようだ。「何でこんなことを?」彼女は声を荒げた。「なぜ私なの?」
「君のことが、ずっと気になっていたんだ」と男は言った。その目は幼さを宿しているが、不気味さに満ちていた。「でも、話しかけることができなくて、だから、こうやって……」
彼女は言葉を失った。彼が彼女の全てを見てきたのだという現実が、耐え難いほどの重みに変わった。「そんなの……」彼女はようやく声を絞りだし、怒りとも恐怖ともつかない感情をぶつけた。「そんなのは愛じゃないわ」
彼は黙って、ただ俯いていた。彼女は重なる言葉も見つけられず、ただその場を立ち去ることしかできなかった。
それから数日、彼女の周囲から例の影は消え去った。新しいアカウントも、コメントも、メッセージも。それでも彼女は、その出来事の余韻から逃れることはできなかった。いつ振り向いても誰かがそこにいるような錯覚から、未だに解き放たれない。日々の生活の中で、彼女はふと立ち止まり、周囲を見渡す癖がついてしまった。
現代の情報社会の中で、彼女は孤独と不安の海を漂い続けている。その海の中にはいつも影が潜んでいる。そして、それが再び牙をむくことがない保証は、どこにもない。