あれは、数年前の夏のことでした。私は当時、大学を休学して、長野県のとある小さな村で一人暮らしをしていました。都会の喧騒に疲れ、静かな田舎で過ごす時間が欲しかったのです。その村には古い神社があり、そこに伝わる不思議な言い伝えが少々気になっていましたが、深く考えることもなく過ごしていました。
ある日、村の集まりで地元の古老から、妙な話を聞かされました。「あそこの神社には、”カゲオモテ”という妖怪がいる」と。カゲオモテは昼間は人目につかないが、夜になると現れ、人々の影に潜むのだという。そして、それと目を合わせてはいけない。目が合った者は、生きていても影の中に引きずり込まれて、二度と元には戻れないというのです。
最初は単なる迷信だと笑って聞き流していました。しかし、その晩、何かに呼ばれるように、私は神社へと向かっていました。不思議と恐怖心はなく、むしろ引き寄せられるような感覚。満月の夜、神社は白々と光に包まれており、その光景はどこか現実離れしていました。
境内に足を踏み入れた時でした。背後でかすかな足音が聞こえました。振り向くと誰もいない。しかし、月の光で伸びた私の影が、何か少しだけ異様に感じました。影は確かに地面にあるのですが、その形が微妙に私の姿とずれていたのです。心臓が早く脈を打ち始め、冷や汗が背筋を伝いました。
誰かがいる。確かにそう感じました。それは目に見えない存在で、私の存在を感じてこちらを観察している。私の感覚は鋭くなり、耳を澄ますと、周囲の木々のざわめきの中にかすかな呼吸音が混ざっていました。
不意に、心の中に直接語りかけてくるような声が響き渡りました。「振り返ってはいけない、私を見るな」と。それは抑揚のない声、冷たく、どこか哀しみに満ちているようにも思えました。私は恐怖に駆られ、走り出しました。走って、走って、やがて村の明かりが見えた頃には、全身汗びっしょりで、肩で息をしていました。
翌日、村の古老に事情を話すと、彼は静かにうなずきました。「あの夜、お前はカゲオモテと出会ったのじゃな」と。そして、私が出会ったその影は、かつて村に災いをもたらした人間の怨念が、妖怪として封じ込められたものだという話をされました。それは数百年前に、この地を治めていた領主の命を受けた村人たちが、冤罪で処刑された無実の者たちの魂であると。
この村には、時折そんな魂が現れ、過去の悲劇を訴えるように訴えてくるのだと言います。彼らは真実を知って欲しいのだろうと、古老はつぶやきました。
それ以降、私は神社には近づかなかったし、その夜の出来事について語ることも避けました。しかし、心のどこかで彼らの訴えが理解できると信じた私は、村の歴史についてもっと知りたいと思うようになりました。決して消えることのない影が、私の中で静かに揺らめいているのを感じながら。
それ以来、私の生活は少し変わりました。夜になると、無性に窓の外にある自分の影が気になるのです。あの夜見た影が、今もどこかで私を見ているのではないかという思いから、眠れない夜が続きました。
しばらくして村を離れ、都会へと戻りましたが、時折あの影の気配を感じることがあります。それはおそらく、あの土地の記憶そのものが私の中に残っているからでしょう。そして、私自身が体験した事実であることを忘れないようにと、カゲオモテが私にそっと語りかけているように思えるのです。
この体験を通じて、私は人の想いの深さ、怨念の怖さを知ることになりました。それが見えないとしても、確かにどこかに存在している。それはいつの日か、何らかの形で解放されることを祈りつつ、私は今もなお、己の影に対して少なからず畏敬の念を抱き続けています。