僕の名前は翔という。今日は、自分自身が体験した、とても信じられない出来事を話そうと思う。あれが現実だったのか、それとも悪い夢だったのか、いまだに判断がつかないが、とにかく壮絶な体験だった。これは昨年の秋、僕がとある廃ホテルを訪れた時の話だ。
友人の裕太から、その情報を聞いたのは、いつもの居酒屋でのことだった。「あそこの廃ホテル、マジでヤバいらしいぜ」と彼が話し始めたとき、僕は興味本位でしか耳を傾けていなかった。そして、何か心霊スポット的なものを求めて深夜のドライブを楽しむような、軽率なノリで、僕らはその場所に向かうことにした。
車で1時間半ほど走った先に、その廃ホテルは静かに佇んでいた。周辺には木々が生い茂り、不気味なほどに静まり返っている。ホテルの外観は、年月と共に老朽化しており、ところどころ窓ガラスが割れていた。だが、僕らは怖がるどころか、むしろ興奮していた。
玄関は鍵が壊れていて、簡単に中に入ることができた。中は外観以上に荒れていて、壁紙は剥がれ、床には埃とゴミが散乱していた。裕太がスマホのライトを頼りに進んでいく。僕は、彼についていきながら一緒にそのライトを頼りに辺りを見渡していたが、その時点では特に恐ろしくはなかった。
大広間へと続くドアを開けた瞬間、冷たい空気が一気に流れ込んできた。何かが違うと感じたが、好奇心が恐怖に勝った僕らは、そのままさらに奥に進んで行った。大広間は天井が高く、無数の椅子が散乱していた。その空間には奇妙なほどの静寂が支配していて、僕はなぜか少し落ち着かなくなっていた。そして、さらに進むと、突然、強い寒気に襲われた。まるで、何かに見られているかのような感覚だった。
「ここ、なんか嫌な感じしない?」と裕太が言った。僕も同じ感覚を持っていたが、うまく言葉にできなかった。ただ、背後に誰かいる、とても冷たくて、暗い存在が影のようにまとわりついているようだった。
それでも、僕らはさらに奥へ進んだ。そして、突然のことだった。背後から扉の閉まる音がしたのだ。圧倒的な力でドアが閉じられたように感じ、その音が静寂を破った。振り返ったが誰もいない。僕と裕太は顔を見合わせ、動揺した。
「今の、なんだ?」裕太が不安そうに言ったが、答えようがない。ただ、ドアはしっかりと閉まっており、押しても引いてもびくともしなかった。まるで僕たちがここに閉じ込められたかのようだった。心底、焦り始めたそのとき、不意に周囲から囁くような音が聞こえ始めた。
ぼそぼそと、何かを語る声。その声は解読不能で、まるで無数の人々が一斉に話しているかのようだった。恐怖が腹の底からこみ上げてくる。僕らは無我夢中でライトを振り回しながら声の正体を探ったが、何も見つからなかった。ただしばらくその場で立ち尽くすしかなかった。
そのとき、ライトが何かを照らした。それは壁に映った、人の影だった。だが、僕の記憶が正しければ、その影は人の形をしていないように見えた。微妙に歪んでおり、何か異形のものがそこに潜んでいるかのようだった。
僕は叫び声をあげ、裕太をその場から引き離そうと必死になった。裕太もその場の異常さを悟ったのか、何も言わずに頷いて走り出した。ドアを必死に開けようとするが、どうしても動かない。閉じ込められているという現実が容赦なく僕たちを襲ってきた。
一瞬、次に何をすべきかわからなくなり、突っ立ったまま考えた。でも、すぐに冷静さを取り戻し、別の出口を探すことに決めた。だが、出口を探そうにも、手がかりはなく、ただ不安だけが膨れ上がる一方だった。
そのとき、不意にまた声が聞こえてきた。はっきりと名前を呼ぶ声。「翔…」どこからともなく聴こえてくるその声は、どうやら僕だけに語りかけていたようで、思わず背筋が凍りついた。誰もいないはずなのに、明確に僕の名前を呼ぶ。それがどこから来ているのかわからないが、逃げたい一心で僕らは走り続けた。
廊下を抜け、階段を駆け上がる。だが、どこに行っても同じ造りの廊下が続いていた。途方に暮れる中、何度も同じ場所に戻ってきたような錯覚に陥り、頭が混乱し始めた。
「これ、本当に出られないんじゃないか…」裕太が呟くその言葉は、現実を突きつけるようだった。恐怖が絶望となり、僕らの心を蝕んでいく。
それからどれだけの時間が経ったかはわからない。ただ、疲れ果てて動けなくなった僕らは廊下の端に座り込んだ。そこで、ついに明かりが消えた。
真っ暗な空間の中、再びあの声が響いた。「翔…ここからは逃げられない…」耳元で囁くその声に、僕はとうとう心が折れそうになった。裕太も様子がおかしくなってきていた。狂気の沙汰に片足を突っ込んだような状態で、彼もまた何かに取り憑かれたように震えていた。
そのとき、不意に大きな轟音が鳴り響き、我に返った。何かが崩れる音、その後に再び訪れた静寂。そして、完全に廃ホテルは僕たちを包み込んでいた。
目を閉じても開けても同じ暗闇、その中で僕らはお互いの存在を感じることだけが生きている証しだった。一瞬の隙をついて、朦朧とした意識の中で、薄明かりが遥か彼方に灯ったように見えた。
僕は必死になってその光に向かって這うように進んだ。裕太も何とか後に続いてきた。
そして、ようやく薄明かりが差し込む廊下の端へ辿り着き、そこで突然、何事もなかったかのようにその光景が開けた。外の光が差し込むロビーに出た瞬間、現実が嘘のように戻ってきた。閉じ込められていたはずの扉は開かれ、冷たい風が吹き込んできた。
何とか外に出ることができた僕らは、無言で車まで駆け戻った。恐怖のあまり、何も言葉にできないまま、僕たちはその場から逃げ去った。
それ以来、僕らはあの場所に関わることはもちろん、話題にすることさえ避けている。まだ未知の解決されていない謎がそこに残されていると感じているからだ。結局、あの日の出来事は頭の中で繰り返される夢や、時折現れる不安感と共に僕の中で生き続けている。あれが現実だったかどうかわからないが、確かなことは、あの廃ホテルは何か魑魅魍魎の巣窟であり、僕たちはその恐怖を垣間見てしまったということだけだ。