あれは去年の晩夏、私が郊外の古びた一軒家に引っ越した直後のことだった。当時の私は都会の喧騒から逃れ、静かな日々を過ごしたくて地方勤務を決断し、この家を格安で借りられると聞いて飛びついた。築50年は経っているであろう木造の家は、一見すると祖父母の家を思い出させるような懐かしさがあったが、一方で何か得体の知れない雰囲気を漂わせていた。
住み始めて数日が経ち、私はある奇妙なことに気づき始めた。夕暮れ時になると、決まって二階の物置から何かが動く音がするのだ。最初は風のせいかもしれないと思っていたが、確かに何か重たいものが引きずられるような音が毎日同じ時間に聞こえてくる。気になった私は、一度二階に行ってみたが、その時は何も不審な物は見当たらなかった。
しかし、それだけでは終わらなかった。ある夜、特に酷い夢を見た。夢の中で私は、家の中をぐるぐると歩き回っていて、誰かに見られているような感覚があった。目を覚ますと、汗が全身に滲んでおり、心臓が早鐘を打っていた。時計を見ると午前3時、妙に静まり返った家の中に一人でいることが急に恐ろしくなった。
翌日、仕事から帰ってくると、一階の廊下の隅に小さな紙切れが落ちていた。明らかに古い紙で、ところどころ黄ばんでいた。その紙には、「出て行け」と赤いインクで書かれていた。ふざけた悪戯をされたのかと思ったが、周囲に私の知人はほとんどいない。それにすぐに思い浮かぶ悪戯好きな友人がいるわけでもない。この出来事をきっかけに、私は少し神経質になっていたのだろう。
次の日曜日、たまらず地元の古くからの住人であるお婆さんに話を聞きに行った。彼女は私の話に耳を傾けた後、少し躊躇してから語り始めた。「その家には昔、ある家族が住んでいたんだけど、ある事情で突然引っ越してしまったのよ。あそこには何かあるって、みんな噂しているけど、具体的に何があったかは誰も言おうとしないのよ」と。
その晩、私は不安定な気持ちのままベッドに入った。真夜中を過ぎた頃、再びあの夢に襲われた。今度はより鮮明で、家の中を歩く足音や誰かの囁き声が耳元で聞こえてきた。何とか目が覚めた時、部屋の温度が異常に下がっていることに気付いた。その時、ドアが軋みながら少しだけ開き、そこには確かに何か黒い影がずっと動かずに立っていたのだ。恐怖で動けなくなり、目を閉じてただ息を潜めていた。
翌朝、私は決意して家から出る準備を始めた。見たこともないような恐ろしい存在とこれ以上同じ空間にいることは不可能だと思ったからだ。しかし、荷物をまとめている最中に、押入れから古びた日記帳が出てきた。それは、以前この家に住んでいたと思われる家族のもので、中には乱雑な文字で「彼がまだいる、私たちは逃げられない」と何度も繰り返し書かれていた。それを見て私の恐怖はピークに達し、この家に何があったのかを知りたくない、と心から思った。
急いで家を後にする際、最後に一度だけ振り返ると、二階の窓に白い影がこちらをじっと見つめているのが見えた。その日はそのまま実家に戻り、後日改めて違う物件を探すことにした。
数ヶ月後、地元の噂でその家が取り壊されたと聞いた時、私は安堵と共に悲しい気持ちになった。この体験を誰にも話したことはない。話せば現実と向き合わなくてはならない気がしたからだ。それでも、あの日見た影が何だったのか、あの家族に何が起こったのかが気になってしまう自分がいるのは事実だ。
これが、私が体験した、ある一軒家での出来事だった。信じるか信じないかは、あなたに委ねることにしよう。