幽霊アパート体験談

心霊体験

私がその体験をしたのは、まだ若く、世の中のことなど何も知らぬ無謀な時代のことだった。大学を卒業したばかりで、私は新しい生活へと胸を膨らませ、都会で就職することになった。一人暮らしのアパート探しに奔走していたある日、ふとした縁で今の部屋を紹介された。

そのアパートは古い木造の建物で、決して豪華とは言えなかったが、どこか懐かしさを感じさせる作りで、私は一目で気に入ってしまった。家賃は驚くほど安く、広さも申し分ない。大家に理由を尋ねたが、「古いからね」と笑うばかりで、特に気にすることはないようだった。

新しい生活が始まり、私は仕事に慣れようと必死だった。毎日が新しい挑戦で、帰宅するときには疲れ果てていた。それでも、部屋に戻ると妙な落ち着きがあった。静かな夜、ベッドに横たわると、聞こえてくるのは風の音と、時折響く床のきしみだけだった。

そんなある日のことだ。残業で少し遅くなり、午後十時を過ぎて部屋に戻った。玄関を開けると、嫌な予感がして鳥肌が立った。ただの錯覚だと思い直し、靴を脱いでリビングに向かった矢先、その匂いに気づいた。香ばしい煙のような、焦げた匂いが漂っていたのだ。

私は慌てて部屋の中を確認した。ガス漏れかと疑ったが、それらしい異常は見当たらない。もやもやとした不安だけを残して、その夜は眠りについた。が、深夜に目を覚ました。どこか遠くから、微かに人の話し声が聞こえてくるのだ。耳をそばだててみるが、言葉はわからない。それでも、それが誰かの声であることは確かだった。

最初は隣の部屋の住人かと思ったが、声は毎晩、決まって夜中に始まる。そしてその時には、あの香ばしい匂いが部屋を満たしていた。それが一週間も続いたある夜、怖れを押さえきれず、私はついに音の出所を探ることに決めた。

声が聞こえてくるのは、どうやら壁の向こうからだ。だが、私はアパートの構造がおかしいことに、その時初めて気づいた。隣の部屋のはずの位置には、廊下と、その先にある物置があった。声が聞こえてくるのは、物置からだ。

私は薄暗い廊下を進み、物置のドアを開けた。すると、漂っていた香ばしい匂いが一層強まった。物置の中は空っぽで、窓もないのに、どこからか月明かりが差し込んでいるように見えた。声は相変わらずそこから聞こえ続けていた。壁の方へ近づくと、何かが置いてあるのに気がついた。それは、小さな古い祭壇だった。

祭壇の上には、枯れた花と、蝋燭のようなものが置かれていた。そして、その脇にあったのは、一冊の古びたノートだった。ページをめくると、何か文字が書かれているが、解読できなかった。ただ、そのノートを開いた瞬間に、私の背後で何かが動いた気配がした。

慌てて振り返るが、そこに人の姿はなかった。しかし、部屋中を包み込むような不穏な静寂が、より一層強まったように感じられた。その瞬間、声は止み、代わりに心臓の鼓動だけが耳に響いていた。私はその場から逃げ出し、自分の部屋へと戻った。

翌朝、大家にあの物置について尋ねるも、彼は「特に何もない」と言うばかりで、話をはぐらかされてしまった。それが却って私の不安を煽った。あの祭壇は一体何なのか、あの声はどうして聞こえるのか、答えは皆目見当がつかなかった。

その日から仕事を終えて帰る夜、私は物置を避けるようにして通り過ぎることにした。しかし、一度気づいてしまった恐怖は徐々に日常を蝕んでいった。夜になるとまたあの声と匂いが現れ、まるで私を嘲るようだった。

限界が訪れたのはある日のこと。疲れ果てて帰宅し、お茶を入れてリビングでくつろいでいた時に、視界の端に何かが動いた。白い影が、物置の方向からこちらを見ているのだ。凍り付くような瞬間だった。私は叫び声を上げ、その場から転げるように離れた。だが、そこには何もなかった。

このままでは心身共に持たないと思い、私は思い切って引っ越すことを決意した。わずか数ヶ月の間しか住んでいなかったが、その間の出来事は鮮明に記憶に残っている。

新しい部屋に移ってからというもの、落ち着いて過ごせるようになった。そのアパートのことを思い出すことはあまりなかったが、たまに蘇る恐怖は、私を怯えさせる。何か、まだ解決されず、置き去りにされた何かが、そこにあるような気がしてならないのだ。

心霊体験とはこのようなものなのかもしれない。現実と幻との境界が曖昧なまま、心の隙間に忍び込んで、ほの暗い影を落としていく。それ以来、私は人知れず、あの部屋と似たような場所を訪れることはなくなった。だが、その存在は私の人生の中で、消えぬ影として潜み続けることだろう。

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