古い木造アパートの一室、壁には長い年月を経てかすかに滲んだ黄ばみが、その歴史を物語っていた。その部屋に住むのは、若き作家の志望者、健太。彼は、いつか自分の小説が世に出ることを夢見て、日々部屋に籠って執筆に励んでいた。しかし、現実の生活は厳しく、作品はなかなか完成しない。出版社からの不採用通知の山が、彼の心を徐々に蝕んでいた。
窓から差し込む夕陽が、彼のおんぼろの机を赤く染める。蝉の声が遠くで鳴いている。そんなある日、健太はアパートの廊下で不思議な音を耳にした。まるで深い地下から誰かが助けを求めているかのような声。その声は、じわじわと彼の中へと侵食し始める。
夜になると、彼は夢を見る。その夢は、どれも現実と見まごうばかりに鮮明で、奇妙だった。古い書物に囲まれた図書館で、彼自身が本を選んでいる。しかし、その本のページは全て白紙。それにもかかわらず、彼はその中に何かを書き込もうとしている。その瞬間、図書館の薄暗い片隅で、誰かが彼を見つめていることに気づく。その視線に気づくたび、悪寒が背筋を走る。
日が経つごとに、彼の幻覚はより深刻になった。仕事中にも、目の隅に何かがちらつくようになり、それに対する不安が募る。「これは幻だ、ただの幻に過ぎない」と自分に言い聞かせながらも、現実感が薄れゆく中で、彼の心の底には得体の知れない恐怖が渦巻いていた。幻覚の中で繰り返されるあの図書館の光景。一体何を意味しているのか。
ある朝、健太は突然その恐怖が現実化する瞬間に直面する。ベッドから起き上がると、机の上の白紙の原稿用紙にびっしりと文字が書かれているのを見つけた。全く見覚えのない文字だった。「これを書いたのは誰だ?」と声を漏らす自分。それに答える者は誰もいない。
彼の思考は暴走を始めた。夢と現実の境界が崩れ、希望の欠片は次第に闇の中へと呑み込まれていく。これは自分が無意識に書いたものなのか? それとも、見えざる者がここにいるのか? 疑心暗鬼に苛まれながら、彼は益々孤立していった。
その日の夜、ふたたび夢の中であの図書館に立っていた。奇妙な本とともに。あの白紙の本だ。しかし、今度はページに文字が浮かび上がっている。それは彼が見たことのない言語、しかし、意味は直感的にわかる。『目を覚ませ、これは夢ではない』。
恐怖はついに頂点に達した。目が覚めてもなお、その悪夢から抜け出せない感覚が残る。彼は手元の原稿用紙を何度も確認するが、それには依然として見覚えのない文字が並んでいた。
翌日、完全なる錯乱状態の中、彼はアパートを飛び出した。新鮮な空気を吸いたかった。外の世界に少しの救いを求めた。だが、世界は彼を拒絶するかのようにその様相を変え、アパートの外もまるで異界と化していた。
誰もいない通りを歩くたびに、見えない誰かが耳元で囁く声が聞こえる。「戻れ、ここがお前の世界だ」と。彼は立ち止まり、振り返る。しかし誰もいない。彼は再び歩き続けたが、その声は付きまとい、脳裏に食い込んでいく。
その夜も、やはり夢は現実を侵食した。再び図書館の中で、彼は一冊の本を手に取った。それを開くと、ページには『終わりの日が近い』と書かれていた。彼はページを閉じたくなったが、手が動かない。目の前には、何者かの影がゆらりと現れ、それが彼に微笑んでいるように思えた。
精神は限界を迎えていた。健太は現実世界へ戻ろうと必死になった。しかし、脳裏で囁く声は止まない。彼は、何が本当で何が幻であるのかを、完全に見失っていた。
ある瞬間、すべてが暗転した。彼は狂ったように部屋中を探し回り、それを破壊し始めた。そして、机の引き出しの奥底から、一枚の紙束を見つけた。そこには、自分の手で書かれた覚えのない文章がびっしりと書かれていた。彼はそれを読もうとしたが、文字は全て蜃気楼のように揺れ、意味を成さなかった。
その時、彼の心に鋭い痛みが走った。すべてが崩壊する音が、彼の中で響いた。部屋の壁が、まるで彼を押し潰すかのように迫ってくる。そして最後に、彼は微かに誰かが笑っている声を聴いた。それは自分自身の声だったのかも知れない。
それ以来、健太は戻らなかった。彼が残した部屋は、すでに人の気配を失い、ただ虚ろな日差しが机の上を照らすだけだった。そして奇妙な音が、今もなお、薄暗い廊下をさまよっているという。