秋の終わり、黄昏時の乾いた風が木々の葉を揺らす音が聞こえるころ、彼は古びた木造の家に引っ越してきた。その家は、遠い昔に裕福な商人が住んでいたと伝えられているが、今ではその輝かしい面影は見る影もなく、長い年月の中でやつれ果てていた。だが、何か不思議な魅力を感じた彼は、その家を購入し、一人静かに暮らすことに決めた。
夜が深まるにつれ、彼は周囲の音に耳を澄ましていた。風が窓を優しく叩く音、どこか遠くで鳴り響くフクロウの声、そしてかすかに聞こえる木の床が鳴る音。最初は気にすることなく、その音に耳を傾けていた彼だったが、次第にその音の中に奇妙なリズムを見出すようになった。そのリズムはまるで誰かが階段をゆっくりと上ってくるかのように思えてならなかった。
ある日、彼は眠れぬ夜を過ごし、ふとした瞬間に目を疑った。薄暗い廊下の向こう、誰もいないはずの場所に人の影が立っている。白い影だった。彼の胸は恐怖で強張ったが、何度も目を擦って再び見るとそれは消え去っていた。「疲れているに違いない」と彼は自分に言い聞かせ、部屋に戻った。
それからというもの、彼はその影の存在に対する恐怖を振り払うことができずにいた。日々の生活はまるで変わり果て、朝が来るとともに彼の心は少し軽くなるが、夜が訪れるとその恐怖が再び彼を襲う。揺れるカーテンの隙間から覗く夜の静寂は、彼にとって徐々に耐え難いものとなりつつあった。
ある夜、彼は決心してその影の正体を確かめることにした。時計の針が深夜を指すころ、彼は勇気を振り絞り、影が現れるという廊下の端に向かった。暗闇の中、彼は立ち止まり、震える手で懐中電灯を握りしめた。心臓の鼓動が耳に響く中、ふと背後から誰かの呼ぶ声が聞こえた。しわがれた、しかし優しげな声。それはまるで彼を迎えようとするかのようであった。
振り返ると、そこには優しそうな表情をした老婆が立っていた。彼は一瞬、恐怖を忘れたように思えた。老婆はとても穏やかに微笑み、彼に語りかけた。「この家は、お前の帰る場所だよ」と。彼はその言葉に何か心地良さを感じ、不思議にも恐れは消えていた。そしてその瞬間、彼は悟った。この家がずっと自分を待っていたのだと。
それから彼は、老婆が彼だけに見える存在であり、この家が彼の心の不安を具現化したものであることを確信した。だが、それと同時に彼は恐れ始めた。この家に自分は囚われてしまうかもしれないと。日中は普通に振る舞いながらも、夜になると老婆の声が聞こえる。彼はその声に導かれ、次第に現実と幻想の境界線が曖昧になっていった。
やがて、彼は老婆の声に従い、家の隅々を探索するようになった。そして、ある日、彼はついに忘れられていた地下室への階段を発見した。そこは長い間封印されていたかのように埃にまみれていた。彼は懐中電灯を手にして、その階段を恐る恐る降りて行った。
地下室は薄暗く、重い空気が漂っていた。彼は辺りを照らしながら歩き回り、古びた家具や忘れられた日用品が散乱しているのを見つけた。そして、隅に置かれた一冊の古い日記が彼の目に留まった。埃を払ってそのページを開くと、今まで知らなかった家族の秘密が次々と明らかになっていった。彼は次々と記されている言葉を目で追い、かつてこの家で起きた悲劇を淀みなく読み進めた。
次第に彼は、この家が何度も住人を狂わせてきたという真実に直面することとなった。ページの最後には、誰かの絶望的な叫びのような言葉が記されていた。「この場所は、囚われし者の魂を飲み込む」と。それを読み終えた瞬間、彼は意識を失いかけた。老婆の微笑み、階段を登る音、すべてが彼の中でひとつに繋がり、逃れられぬ運命の重さを感じた。
気がつくと、彼は自分の部屋のベッドに横たわっていた。外からは朝の光が差し込んでいたが、彼の胸中には夜の暗闇が刻み込まれていた。それでも彼は決意した。この家から逃げると。そうしなければ自分がいずれ追い詰められることを、彼はようやく理解したからだ。
しかし、どれだけ逃げようと試みても、不思議なことに彼は再びこの家に戻ってきてしまう。現実を否定するかのように、彼の頭には優しげな老婆の声が響く。「あなたの帰る場所はここ」と囁きかけるたびに、彼の心は再び囚われていくのだった。幻想と現実の狭間で薄れゆく彼の精神は、もはや一つの結末へと向かって突き進んでいた。彼の胸には、果てしない恐怖と奇妙な安堵が交錯するばかりであった。