降りしきる雨が、しっとりとした不気味な静寂をもたらす夜の山里。その村は古い伝承とともに暮らしており、少年時代には神秘的な伝説話を多く聞かされたものだ。その晩、佐々木は親友の健太と共に、不意にその伝承の一つを思い出した。
「あのさ、母ちゃんが話してくれた妖怪の話、覚えてる?」佐々木が呟くと、健太は少し面倒そうに頷いた。「山の神が怒ると、夜中に白い狐が現れるんだろ?そして、村人を山奥に引きずり込み、帰れなくなるって話だよな」
佐々木は空を見上げる。曇った夜空には月も星も見えず、ただ漆黒が支配していた。それでも、彼の興味は尽きなかった。「なんでそんな話が広まったのか、気にならないか?」その好奇心は彼の心を掴んで離さなかった。
「どうだかなぁ」と健太はしばし答えを渋ったが、結局は勝手に佐々木の冒険心に引きずられる形で付いていくことになった。
二人は小さな懐中電灯を頼りに山道を進んでいく。滑りやすい地面と蠢く影は、彼らの心に不安を微かに浸透させていた。木々の隙間から、微かに狐の鳴き声が聞こえた気がした。「聞こえたか?」佐々木が囁くと、健太は身を震わせた。「ただの風の音だろ」
実際のところ、誰もその狐を見たことはない。だからこそ、存在を信じる者も少ないはずだ。しかし、その夜の山は、まるで彼らを餌食にしようとするかのような気配を漂わせていた。
やがて彼らは、村人にも忌み嫌われる一本の古木の前に辿り着いた。その大木はかつての祠の主であったが、ある理由から祠は破壊され、今では木だけが残されているという。木の周りは異様に静まり返り、周囲の空気も異様なほど冷たかった。「ここが噂の場所だろ」健太は唇を噛み締め、吐く息が白くなる。
しばしその場で落ち着かない時間が流れる中、佐々木は目を凝らした。それはほんの一瞬のことだった。闇の奥に、何か白いものが動いたように見えた。しかしその時には既に遅く、風が猛烈に吹き抜け、彼の視界を奪った。懐中電灯の光も霞む中、突然何かが彼の肩に触れた。
「佐々木、おい、戻ろう」と健太の声が、奇妙に遠くから聞こえる。「…あれは?」佐々木は自らに問いかけながら、視線をその白い影に向けていた。それは確かに、人形のような形をしていたが、姿がはっきりとしない。佐々木はその場に釘付けとなり、足が動かなくなる。
しかし、その影が近づいてくると共に、冷気が肌を刺すほどに強くなり、彼はようやく正気に戻った。「逃げよう」
二人は慌てて山を駆け下りた。背後からは、静かに足音が追いかけてくるように感じられたが、振り返る勇気を彼らは持ち合わせていなかった。
汗だくで村に戻った時、彼らの異様な様子に村人たちは不安な表情を浮かべた。佐々木の母親はすぐに彼らを抱きしめ、無事を確かめようと必死だった。村の長老が二人に近づき、静かに問い掛けた。「何を見たのか?」
佐々木は勇気を振り絞り、言葉を選んで答える。「…白い狐を見た気がします」健太も頷きながら、「影みたいに消えた」とつぶやく。
長老は深い溜息をつき、言った。「その古木には、かつての祠の神が眠っていた。しかし祠が壊されて以来、神は怒りを募らせ、時折狐の姿を借りて現れるのだろう。お前たちが無事で何よりだ」
その日から、村では再び夜の山に近づかないようにとの注意が呼びかけられるようになった。佐々木と健太も、それ以来二度とあの山へは行こうとはしなかった。しかし、彼らの心には忘れられない恐怖が刻まれていた。
時折、風が強く吹く夜には、白い影が村を見守るように立っているのではないか—そんな不安でいっぱいの目覚めを、誰もが迎えることとなった。
果たしてそこに本当に何かがいるのか、それとも彼らの心の中だけの妖怪なのか。それはもう誰にも、知る由もなかった。