冷たい雨が細かく降りしきる夜、山奥の古びた村にその噂は広がり始めていた。生臭い息を吐き、古い木々の間を自在にすり抜ける影。村人たちはそれを「山姥」と呼んだ。夜の深い闇に紛れ、山から下りてくるというその存在は、村人たちの心に恐怖を植え付けた。
村は古い伝承に満ちていた。人々は代々この地に根を張り、自然を敬いながら暮らしてきた。だが、ここ最近妙なことが立て続けに起こった。何者かに家畜が襲われる、夜中に不気味なうなり声が響く、そして若い者たちが体の不調を訴える。村人たちは皆、夜が訪れるたびに不安に包まれ、家々の灯りは絶えずともる。だが、誰一人としてその原因を突き止める者はいなかった。
山の麓に住む若者、春一はその村の中でも特にその影響と対峙する夜々に脅かされていた。冬を迎える山は霧が深く、光をも吸い込むように生い茂った樹々が影を作っていた。夜ごとに聞こえる不気味な囁き声は春一の部屋の窓を叩く。ある夜、思い切って窓の外を覗いてみると、霧の中に微かに動く影を見た気がした。その瞬間、冷たい恐怖が身体中を駆け巡り、彼はその場に崩れ落ちそうになった。
翌朝、村の長老の下を訪ねてそのことを告げると、長老は静かに頷き、遠い目をしながら昔語りのように話し始めた。「昔々、山の深い奥に、巫女がいたんじゃ。その巫女は土地に安寧をもたらす力を持っていたが、あるとき誤解され村を追われた。以来、彼女は山に姿を消し、いつしか妖怪として噂されるようになった。それが山姥の伝承の始まりじゃ。」
長老の話を聞いた春一はぼんやりと思いを巡らせた。追われた巫女とはいったい何者だったのか。彼女が引き起こしたとされる災厄は本当に彼女のものだったのか。それを確かめるためには、恐怖を凌駕して山に分け入るしかないと決意した。
夜が更け、霧がさらに深まる中、春一は懐中電灯を片手に山道を進んだ。木々の間を通り抜ける際、風が彼の耳許で切なげに囁く。何度と無く鈴虫の音が静寂を破る中、不意に寒気が背筋を走った。草葉の露が肌にひやりと触れるたび、春一の心臓は不規則に跳ねる。ひたすらに進む道の先に、ぽつんと灯る古びた祠を見つけたとき、彼は微かに安堵した。そこは長年忘れ去られていた場所、伝説の巫女が祀られた場所であった。
祠の中には、かつての巫女を描いた古い木彫りの像があった。像の表情はどこか悲しげで、石板に刻まれた文字は風化しつつも、かろうじて読み取れた。「我が魂、山の守り手たらむ時、心より迷へる者を導かん」と。皮肉めいて、いつしか人々に疎まれた巫女が、なおも人と自然をつなぐ存在として語り継がれていたのだ。
その瞬間、後ろから何かが動く音が聞こえた。そして、冷たい風が一陣、春一の身体を通り過ぎた。振り返ると、夜霧が凛と静まり返り、その中にふわりと浮かぶ幽かな人影があった。細長い影はゆらめき、彼の方へと近づいてくる。
「あなたなのですか、山姥様」と、春一はか細い声で問うた。人影は何も答えず、ただ彼を見つめていた。彼の問いかけに応えるかのように、彼女の影はやがてはっきりとした形をとり、霧の中で哀しみの色をまとった妖しげな姿を浮かび上がらせた。
「私はここに来た。お前たちを、見守るために」と、影はほのかに微笑んだように見えた。言葉は風に紛れて消えていったが、その余韻が彼の心に深く残った。影はやがて祠の奥へと消えていき、静けさの中に何か温かさを残した。
帰り道、春一は振り返ることなく山を下りた。その背中に感じる視線は、たしかに彼を見送っているようだった。それは人ならざる者が、彼らの暮らしを見守っている証であり、また脅威とされていた存在の真実の姿でもあった。
村ではそれからも時折、山からの不思議な出来事があった。しかし、春一はもうそれをただ恐れるのではなく、自然と共存する存在として静かに受け入れた。やがて、彼の心には祠での出会いが深く刻まれ、未来にわたって語り伝えられる話となっていくのだった。
人々が忘れられた記憶を再び呼び覚ますとき、その裏に潜む真実はいつも妖しげな光を放つ。古き村の伝承がまた新たな息吹を得るように、夜の帳の向こうに秘められた物語は、静かに語り継がれていくのである。