誰にも話したことがないが、今になってもあの体験を忘れることができない。あれは私が大学生のときだった。サークルの仲間たちと一緒に夏の合宿に行くことになったのだが、それが地獄の始まりだった。
合宿場所は山奥にある古い旅館だった。道中、車で険しい山道を越え、たどり着いたその建物は、時の流れに取り残されたような雰囲気を醸し出していた。着いた瞬間から何かがおかしいと感じたが、仲間たちはそんなことを気にも留めていなかった。
初日の夜、皆で食堂に集まり、酒盛りを始めた。しかし、そのとき、旅館の廊下の奥から、不気味な低い音が聞こえてきたのだ。風の音が鳴り響く中、誰もその音を気に留めずにいたが、私には、それが明らかに自然の音ではないことが分かった。何かが僕たちの知らない次元からこちらを覗いているような、そんな感覚だった。
その夜、私は寝つけなかった。私の泊まる部屋は廊下の一番奥にあり、廊下の突き当たりは真っ暗なままだった。窓の外は月が照らす山影で、その静寂の中にいると、世界と切り離されたような孤立感を覚えたのを覚えている。そして、真夜中になり、再びあの音が始まった。
廊下を歩く奇妙な足音。誰もいないはずの時間に響くその音が、私の部屋の前でぴたりと止まった瞬間、息が詰まりそうになった。私は布団の中で体を固くし、目をぎゅっと閉じたが、次の瞬間、部屋のドアがゆっくりと開く音がした。
何も見たくない。しかし、何が起こっているのかを確認せずにはいられなかった。ドアの隙間から外を覗いた私の目に映ったのは、そこに立つ人影だった。しかし、それは人ではない。人の形をした『何か』だった。形を保たないような、こちらを見つめているようで見つめていないような、その存在感に、私は思わず後ずさりしてしまった。
次の日の朝、他のメンバーにそのことを話したが、誰も真剣に聞いてはくれなかった。むしろ、寝ぼけたんだろうとか飲み過ぎだとか、みんな冗談めかしていた。しかし、私は確かにあの目を見た。私を見つめていたあの視線を感じたのだ。
昼間の活動は、山の中でのハイキングだった。美しい自然の中で少しだけ不安を忘れることができたが、心のどこかで昼間の安全が永遠ではないことを知っていた。夜になると、またあの音がするのではないかという恐怖が頭を離れなかった。
二日目の夜、再びあの音が始まった。今度は全員がその場に集まって酒を飲んでいた時間だった。そして、音の正体を確かめようということになり、何人かは意気揚々と音源を探索し始めた。しかし、その音は我々を導き、廊下の奥へと私たちを引き込んでいった。
そこに立っていたのは、昨日夜中に見たのと同じ人影だった。横に長い暗がりの中に、まるで次元の狭間から顔を出したように立っていたその影は、私たちを嘲笑うかのように薄く消えていったのだ。混乱とともに逃げ出す私たちを捕らえようと、空間そのものが歪むかのように感じた。
誰一人として音の正体を言い表せなかった。それが、この世界のものではないことを、皆が暗黙の了解で知っていた。しかし、あまりに理解できないその存在に、誰も言葉を発することはできなかった。
次の日、我々は旅館を後にした。まるで何事もなかったかのように、その古びた場所を去ったが、帰りの車中、全員が沈黙していた。誰一人としてあの話を蒸し返そうとはしない。あの身の毛もよだつ存在を、私たちは一生忘れることはなかった。
いまだに思うことがある。あの夜、私たちが見たものは何だったのか。あの、不気味な笑みを浮かべる影はどこからやってきたのか。そして、あの場所にはいったい、何が潜んでいるのか。もしかしたら、あの旅館だけでなく、世界のどこかにあのような次元が存在し、私たちの知らないうちにこの世界に浸透しつつあるのではないか。
あれ以来、夜道を歩くたびに、背後に何かがいるのではないかという恐怖感が常に付きまとう。ふいに現実が色褪せ、あの夜の記憶がよみがえってくる。圧倒的な無力感と、異界からの見えない視線に包まれると、私はただ固まることしかできない。
この経験を忘れようと努めても、それは無駄な努力だと気づかされる。人間には理解できない何かが、この世のどこかに潜んでいる。それを認識してしまった私は、一生この恐怖とともに生きていくのだろう。あの次元からの視線は、今も私の心の中にある。それが完全に私を離れることは、決してないのだろう。