山奥の宿での怪異体験

閉鎖空間

私は一夏の間、ある山奥の古びた民宿でアルバイトをしていた。その民宿は、古い木造建築で、山に囲まれた閉鎖的な環境にあるため、普段はあまり利用客が多くないところだった。けれども、夏になると涼を求めてやってくるキャンプ客がちらほら訪れる。私はそこで、調理補助や掃除を任されていた。

それは、8月も終わりに近づいた頃のことだ。その日は予約が少なく、客室は半分ほどしか埋まっていなかった。夕方の支度を終え、夕食の時間を迎えると宿泊客たちは一部屋に集まり食事を楽しんでいた。ふと、厨房の隅にある小さな窓から外を見ると、すっかり日が暮れていて、山々は黒い影となり、その間を涼しい風が通り抜けていた。

その日の異変は、夜中に起こった。ふと目が覚めると、どこかから微かに話し声や笑い声が聞こえてくる。最初は食事中の客たちの声だろうと思ったが、時計を見るとすでに深夜1時を過ぎていた。さすがにその時間では誰も話しているはずがない。不思議に思いながらも、気のせいだろうと布団を被り直して再び眠りにつこうとした。

しかし、その声は次第に大きくなり始めた。まるで私の耳元で囁かれているかのように感じられ、とうとう眠れなくなってしまった。仕方なく布団を出て、音のする方向を確かめることにした。どうやら声は廊下の奥から聞こえてくるようだ。私は恐々としながらも、まるで何かに誘われるかのように廊下を歩いた。この時、私の心の片隅で「戻るべきだ」と繰り返し訴える声があった。しかし、そんな声は抑え込み、私はそのまま進むことにした。

廊下を進むと、一番奥の客室の前で立ち止まった。どうやら声はこの部屋から聞こえる。私は耳を近づけ、音を確かめようとした。すると、確かに何人かの人が話している声がする。しかし、よく聞くとその内容は何語かもわからない、はっきりしない何か異様な響きを持っていた。勇気を出してドアノブに手をかけたが、それはがっちりと鍵が閉まっていた。

その瞬間、背後で「こんにちは」とつぶやく声がした。振り返ると、そこには一人の中年男性が立っていた。客の一人かと思ったが、その顔をどこかで見た覚えはない。かすかな微笑みを浮かべたその男は、私をじっと見つめている。あまりの驚きに反応ができずにいると、その男は廊下を奥へ、まるで壁の中へと吸い込まれるように消えていった。

冷や汗が背中を伝うのを感じた。恐怖に駆られた私は、慌てて自分の部屋へ戻ると、布団をかぶって震えながら朝を迎えた。翌日になって、宿のオーナーに昨夜のことを話すと、彼女は少し困ったような顔つきをしながら、こう話してくれた。

「あのお客様の声、たぶん聞こえるんだね。この宿、昔から時々そういうことがあってね。ほら、何十年も前に、ここで大きな事故があったでしょ。あの時に亡くなった人たちが時々戻ってくるって、地元の人は言ってるのよ。」

私はその話を聞いて背筋が凍った。あの夜に見た男は、果たして本当にこの世の者ではなかったのかもしれない。不思議に思い、その後まもなくして民宿のアルバイトを辞めた。

それから数年が経った今、その体験がリアルすぎて恐ろしく夢にも出てくることがある。もし、あなたが山奥の古びた宿に泊まることがあれば、どうか気をつけていただきたい。夜中の囁き声には、決して耳を傾けない方がいいだろう。なぜなら、それが何者か私に話しかけていたのか、未だに考えることすら恐ろしくてたまらないからだ。

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