山の神隠しに魅入られた涼子の喪失と孤独

神隠し

山間の小さな村に、一つの恐ろしい伝説があった。古くからその地に根付く言い伝えで、人々は「山の神隠し」と呼んでいた。それは、夜になると人々を異界へと連れ去り、戻ってきたとしても何かが違っているという謎めいた現象であった。

主人公、涼子は都会からこの村に引っ越してきたばかりであった。都会の喧騒から逃れ、静かで穏やかな生活を求めてここにやってきた。しかし、村の人々の間に漂う微かな恐れの空気に、彼女は徐々に不安を覚え始める。誰もが口を閉ざし、詳細を語ることはなかったが、村の奥深くに入ることは決して勧められないということだけは暗黙の了解で知ることとなった。

ある夜、涼子はどうしてもその謎を解き明かしたくて、村の深い山の中に足を踏み入れることを決意した。それは新月の夜、月明かりが全く照らさない漆黒の闇の中だった。ランタンの灯りだけを頼りに、彼女は古びた道を進んでいった。周囲の静寂が彼女の耳に重く響き、さらさらと葉が揺れる音さえ、心を震わせた。

道は次第に細く、両側から鬱蒼とした木々が覆いかぶさるように迫り、まるで彼女を閉じ込めるかのようだった。深く息を吸い、涼子は進み続けた。ふと、風が彼女の頬を撫で、その瞬間、不思議な感覚に襲われた。背筋に冷たい何かが走り、山道が突然見知らぬ風景へと変わるのを感じた。

そこは広大な平原、足元には淡い青の花が一面に咲いていた。空はどこまでも青く澄み、人の気配は全くなかった。立ち尽くす涼子の瞳に、ぼんやりした浮遊感が漂い、次第に現実感を失っていくのを感じた。その時、彼女の後ろから静かに声が聞こえた。

「こちらに来てはいけない。」

振り向くと、そこには誰もいなかった。声は柔らかく優しいものでありながら、涼子の心を鋭く切り裂くように響いた。途端に意識が曖昧になり、濃い霧が彼女を包み込んだ。そして次の瞬間、彼女は地面に倒れ込み、何か重たいものに引き込まれる感触を覚えた。

どれほどの時が経っただろうか、涼子は薄暗い岩屋の中で目を覚ました。周囲を見渡すと、そこには古びた仏像とぼんやりとした灯りだけがあった。身体は重く、まるで体内の力がすべて吸い取られたかのようだった。ドキドキと高鳴る鼓動を抑え、彼女は外へと這い出た。

外の世界は不変でありながら、何かが確実に違っていた。村の様子も村人たちの顔も、どことなく違和感を覚えたのだ。帰り道を辿る彼女の耳に、遠くで子供たちの無邪気な笑い声が届いた。しかし村人たちと視線を交わすと、その笑顔は仮面のように冷たく無機質であることに気づいた。そして言葉をかけられることもなく、ただ冷ややかに見守られるだけだった。

涼子はしばらくの間、その変化が何であるのか気付き得ずにいた。しかし、次第に異変は日常の細部にまで及ぶようになった。食事をしても味が希薄で無味、花の香りも感じず、彼女の感覚はどんどん鈍くなっていくようであった。夜になるたびに、あの深い山の声が聞こえてくるようになり、それと共に彼女自身の存在が次第に消えていくような錯覚に囚われた。

ある日、村の古老が涼子に語りかけた。「この村の者は皆、何かを失って戻ってきた者たちだ。失った何かと引き替えに、あの山の秘密を抱えて生きている。」その言葉に、涼子は愕然とし、自らもその一員であることを感じた。彼女は確信した、あの夜、山の神隠しによって自分も異界に連れて行かれたことを。

失われたものは心か、それとも魂か。それを知る手だては誰も教えてくれなかった。ただ、涼子は再びあの山に呼ばれるように引き寄せられ、いつか消え入るように、この現世からも姿を消してしまうのではないかという漠然とした恐れにかられた。

それでも彼女は、元いた世界には戻れないことを悟っていた。この村で生きるしかないのだ。しかし、人々の中で生きているという感覚は日に日に薄れていき、やがて自分自身であることすらも失われていくように思えた。

そして再び新月の夜が訪れる。あの山の道は彼女を再び呼んでいるかのようだ。おそらく遠くない未来、涼子はあの不思議な平原へと帰るだろう。そして、その時にはもう、彼女の中には何も残されていないのかもしれない。

彼女は最後に、その身を包む夜の闇に祈りをささげた。彼女の願いが届くことはないかもしれない。しかし、かすかな希望として、自分自身の何かがまだそこに残っていることを、彼女は信じ続けるより他なかった。

タイトルとURLをコピーしました