私はこの体験談を誰かに話すのは初めてです。今までは、恐ろしい思い出を心の奥底にしまい込み、口にすることすら憚られていました。しかし、あの夜のことを忘れることは到底できません。この話を書くことで、少しでも心が軽くなるのではと期待して、自分自身に挑戦してみることにしました。
数年前、私は大学で民俗学を専攻していました。ある夏休み、ゼミの研究の一環で、日本各地の伝承や妖怪に関するフィールドワークを行うことになりました。私たちの研究グループは総勢4人で、それぞれが異なる地域を調査することになっていました。私は、古くから妖怪の伝承が多く残るという、山深い村を訪れることになりました。
その村は、現代から隔絶されたような場所で、携帯の電波すら通じません。公共交通機関もなく、最寄りの駅から車で数時間ほどの距離にありました。唯一のアクセス手段は、村まで繋がる曲がりくねった山道を慎重に車で進むことでした。
村に到着した私は、民宿に泊まることにしました。民宿の女将さんは非常に親切で、私が妖怪伝承に興味があると話すと、いくつかの興味深い話を聞かせてくれました。その中で特に気になったのは、「山の神」という存在についてでした。村人たちはその名を語るのを躊躇し、女将さんも少し声を潜めて話してくれました。
「山の神」は村の裏手にある山に住むと言われ、恐ろしい姿をしているとのことでした。誰もその姿を見たことはないものの、神秘的な力を持ち、人々に不幸をもたらすとされています。村の人々は「山の神」を畏れ、決して山に近づかないようにしているそうです。しかし、好奇心旺盛な私は、その話を聞いて逆に山に興味を抱いてしまいました。
翌日の朝、私は村人たちに挨拶をしてから、一人で例の山に向かいました。道中は妙に静かで、不思議なほど空気がひんやりとしていました。それでも、真昼間だったこともあり、特に怖いという感覚はありませんでした。
しばらく道を進むと、何やら気配を感じました。振り向いてみても誰もいません。しかし、その感覚は消えず、むしろ強まっていました。何かがおかしいと感じ始めた私は、調査を終えて早く帰るべきだと考えました。しかし、すでに山の奥深くまで来てしまっていたようで、帰り道がわからなくなってしまいました。
焦りつつも、私は慎重に歩みを進めました。とにかく道をひたすら辿り、何とか村に戻るしかありません。それでも、足が勝手に重くなり、進むのが困難になってきました。何かが背後にいるような気がして、何度も振り返りましたが、誰もいません。
いつの間にか、太陽は山の向こうに沈み、辺りは薄暗くなっていました。心臓の鼓動が速くなるのを感じます。このままでは本当にまずいと思い、携帯を取り出して地図アプリを確認しましたが、電波は届いていませんでした。絶望感が私を包み込んでいきました。
その時、微かに人の声が聞こえたような気がしました。村の方から名前を呼ぶ声が近づいてきます。希望を持ち、声のする方に向かって歩き始めました。辺りはもう完全に暗く、足元も見えない状態でしたが、声だけが頼りでした。
やがて、声は次第に大きくなり、まるで私のすぐ近くにいるように感じました。しかし、その瞬間、私は驚愕しました。声は確かに私の名前を呼んでいたのですが、その声質は次第に変わり、どことなく人間のものではなくなっていました。何かが私を試すように、耳元で囁きかけてくるのです。
恐怖と寒気に襲われた私は、足がすくんで動けなくなってしまいました。すると、突然、森の中からぼんやりとした光が見えました。それは人魂を思わせる青白い光で、揺らめきながら私の方に向かってきます。
光が近づくにつれ、その後ろにいる姿が見えてきました。それは、一見人間の形をしていましたが、何かが違うことはすぐにわかりました。目が異様に大きく、肌は青白く透けるようで、笑みを浮かべた口元からは鋭い牙が覗いていました。それは「山の神」としか呼べない存在でした。
恐怖心で意識が遠のきかけた時、突然頭の中に声が響きました。「帰れ。ここにいてはならぬ。」その言葉が意味するところはすぐに理解できませんでしたが、とにかく逃げなければならないと直感しました。
再び足が動き始め、私は全速力でその場を駆け出しました。後ろを振り向く勇気はなく、ただひたすら走り続けました。不思議と木々の間に小道が現れ、私はそれを進むことで何とか村にたどり着きました。村に戻った私は、そのまま民宿の部屋に駆け込み、こみあげてくる涙を抑えられませんでした。
次の日、村を去る私に、女将さんは静かに語りかけました。「あんたが無事でよかった。山の神は善悪を超えた存在だ。どんな理由があるにせよ、山を犯してはいけないんだよ。」
それ以来、私は二度とあの村を訪れることはありません。しかし、あの出来事を思い出すたびに背筋が凍りつくのです。今でも、夜中に薄暗い場所を歩くとき、「山の神」のささやきが聞こえてくるような気がしてなりません。