私は生まれも育ちも地方の小さな村で、子どもの頃からさまざまな奇妙な話や噂を聞いて育ちました。その中でも特に印象深いのは、「山の主」と呼ばれる妖怪の話でした。これは村の古老たちが口々に語るもので、代々伝えられているものでした。彼ら曰く、山の中には人ならざる存在が住んでおり、時には人間界に姿を現すこともあると言います。
ある夏のことでした。私は大学から帰省し、久しぶりに村でのんびりと過ごす予定でした。田んぼの仕事を手伝ったり、近所の友人たちと川遊びを楽しんだり、何不自由ない穏やかな日々が続いていました。しかし、ある夜のこと、私は不思議な体験をすることになります。
その日は特に蒸し暑く、寝室で寝苦しさを感じていました。月の明かりが窓から差し込み、部屋をうっすら照らしていましたが、なぜか私は眠れずに、ベッドの上でうとうとするだけでした。ふと、どこからか耳障りな音が聞こえてきたのです。キィキィという磨りガラスを引っ掻くような音が、風に乗って私のところまで運ばれてきました。最初は夢うつつの中で聞き流していましたが、次第にその音がはっきりとしたものに変わり、私は完全に目が覚めてしまいました。
音の正体が気になり、こっそりと窓を開け外を覗いてみました。そこに広がるのは、いつもの見慣れた庭でした。けれども、その庭の中に、今まで見たことのないものがぼんやりと見えたのです。白い着物をまとった長身の人影が、静かに庭を横切っているのが見えました。その姿は、あまりにも不自然で、まるで地面から浮いているかのように滑らかに動いていました。
私は驚きと恐怖で声を失い、そのままその場に立ち尽くしました。人影はしばらく庭を徘徊した後、ふっと消えてしまいました。まるで何事もなかったかのように、夜の静寂が戻ってきました。
翌朝になり、私は昨日の出来事を家族に話そうかどうか悩んでいました。結局、何かを話すきっかけをつかめず、そのまま黙っていました。しかし、どうしても気になった私は、村の神社を訪れ、そこで神主さんに昨夜の出来事を相談しました。
神主さんは私の話を静かに聞き終えると、重々しくうなずきました。「それは、山の主だな。山の主は、滅多に人前に姿を現さないが、何か特別な時にはその姿を見せることがある。村の守護者とも言われるが、時に悪戯好きでもあるんだ。」
私はますます訳が分からなくなり、神主さんにどうすれば良いかを尋ねました。彼は微笑み、「恐れることはない。山の主は決して悪い者ではない。ただ、何かメッセージを伝えに来たのかもしれない。忘れずに心に留めておくと良いだろう。」と答えました。
その後、私は不思議な体験をしたことを心の中にとどめたまま、いつものように村での生活を続けました。しかし、何か目に見えない存在が私たちを見守っているという思いが、心に静かに根付いていきました。
それから何年かが過ぎ、私は再びあの村を離れ、都会での暮らしを始めました。忙しい日々の中で、あの晩の出来事はいつしか遠い記憶となり、普段の生活に埋もれていきました。それでも時折、ふとした瞬間に思い出すのです。静かな夜に、山の主が庭を歩く姿を。そして、その姿を見た時のあの静けさと、不思議な安心感を。
都会の喧騒の中で生活する私にとって、あの体験は特別で、そしてどこか懐かしいものでした。山の主は、私の中で、ただの妖怪ではなく、村で過ごした幼少期の思い出と重なり合い、心の奥底で息づいている存在となりました。
いまでも時々、故郷の村に帰るたびに、私はあの夜のことを思い出し、かつて庭を横切った長身の人影のことを考えます。見えざる存在が私たちの周りにあると信じることは難しいかもしれませんが、あの経験を通じて、私はこの広い世界の中で、私たちが理解できない何かが確かに存在するのだと感じるようになりました。それは決して恐怖ではなく、どこか暖かく、優しいものでした。私たちを見守る目が、確かにどこかにあるのだと信じています。