私がその村を訪れたのは、大学で民族学を専攻していたときのことだった。ゼミの先生が以前から興味を持っていたというその村は、山深い谷間に位置し、都会の喧騒とは無縁の場所だった。先生から村の独特な風習についての調査を依頼され、私は喜んでその任務を引き受けた。
村に入るには、登山道を半日ほど歩かなければならない。村までの道中、古びた案内板には「此より先、外者立入禁止」とだけ書かれており、なんとも不吉な印象を受けた。しかし、事前に村の長老から特別な許可を得ていた私は、その警告を無視して山道を進んだ。
村に到着すると、まずその静寂さに驚かされた。人口はわずか百人ほどで、外界とはほとんど交流がないらしい。村人たちは皆、私に対して好意的だったが、どこか彼らの視線には警戒心が混じっているように感じられた。宿泊を許可された民家の古女主人、タエさんも例外ではなかった。
「ここでは夜に外を歩かんほうがええ」
彼女は寝床を準備しながら、ぽつりとそう呟いた。理由を尋ねると、彼女は口をつぐんでしまった。何かを隠しているのだろうか、と私の興味は一層掻き立てられた。
翌日から私は村の風習について調査を開始した。聞き取り調査を進めるうちに「オロチ祭」という名前がしきりに語られるようになった。それは、先祖代々から続く祭りで、村の平和を祈るためのものだという。しかし、不思議なことに、その詳しい内容を語りたがる村人は誰ひとりおらず、ただ「神聖である」という言葉だけが返ってきた。
気味の悪いことに、祭りの名前に「オロチ」という古い蛇の神話の名前が含まれていることも私の興味をさらにかき立てた。そこで、村の小さな資料館を訪れることにした。館内には古びた書物や写真が乱雑に置かれており、その中にはかつてこの地を訪れた文化人類学者の手記もあった。
手記には、オロチ祭に関するわずかな情報が記されていた。祭りは、山の頂上にある古い祠で行われ、村の選ばれた若者が「オロチ様」のために捧げ物をするという。捧げ物の詳細は不明で、その後若者は祠から戻ってきたことはないとある。本当に怖ろしい記述だったが、事実を確かめるためには祭りをこの目で見るしかないと決意した。
幾度か尋ねたのち、タエさんがオロチ祭の夜にこっそり私を祠まで連れて行ってくれることになった。村人に気付かれないよう、二人は闇夜の森を慎重に進んだ。月明かりが僅かに地面を照らす中、遠くから低いうなり声が聞こえてきた。それが祠のある場所からだと判断したタエさんは、不安げな顔で少し立ち止まった。
祠は古めかしい木造で、厳かさに満ちていた。中まで入ると、そこには怪しげな像と共に、多数の土器や呪符が並べられていた。その時、背筋を刺すような冷たい空気が流れ、祠の奥から一人の若い男性が歩み出てきた。彼の目はどこか虚ろで、そのまま祭壇に膝をつき、何かを祈り始めた。
その瞬間、私は悟った。彼は捧げ物そのものなのだ。村の平和を守るために、人身御供が行われるという信じがたい事実に直面し、強烈な震えが全身を走った。血のように赤い月光が祠を照らし、多様な影を揺らす中、私は目の前の光景が現実であることを疑った。
急いでタエさんに問い詰めると、彼女は静かに真実を語り始めた。村は昔から疫病や災害に苦しみ、その度に「オロチ様」が怒っているとされた。そして、それを鎮めるために選ばれるのが、何も知らされずに育った青年であると。彼女自身も、かつて兄を失ったという。
ここまで来ると、もう理論や論理で説明できるものではない。不思議なことに、村の平和は確かに保たれ、オロチ様の怒りが解けたと信じられている。それを知った今では、この風習は人知を超えた何かに支配されているとしか思えない。
翌朝、私は村を離れた。帰路の道中でも、後ろ髪を引かれるような感覚に囚われていた。あの村は、一体何を守っているのか。そして、次の捧げ物が選ばれる時、それはいつやってくるのだろうか。問いは尽きないが、この一件が私の研究人生に与えた影響は計り知れない。
村の不気味な風習は、いまだに私の脳裏から離れない。あの瞬間、あの光景が現実であったか否か、それを断ずることができる術はもう私にはない。