私がこの体験をしたのは、数年前の秋のことでした。今でもあの時のことを思い出すと背筋が寒くなります。あれは私が一人暮らしをしていた頃の話です。私が住んでいたマンションは、築年数がだいぶ経っていたものの、家賃が安く、職場からも近かったので気に入っていました。でも、あれからはその場所を離れる決意をしました。
ある晩、仕事を終えて帰宅すると、部屋の中に違和感を覚えました。部屋の空気がまるで少し冷たく感じたのです。普段はあまり気にしないのですが、その時は明らかに何かが違う気がしました。でも、疲れていたので、早くシャワーを浴びて寝ることにしました。
翌朝、いつものように出勤の準備をしていると、鏡に映る自分の顔がどことなく変に感じられました。目の輝きが少し違うような、肌の色がいつもよりくすんで見えるような気がしました。これは単に疲れているせいかもしれないと自分を納得させ、家を出ました。
その日、職場では特に変わったことはありませんでしたが、どうも同僚の視線が気になります。彼らが私を見ている時間がいつもより少し長いような、会話のトーンが微妙に異なるような気がしてきました。何度か鏡で自分の顔を確認しましたが、特に異常は見つかりませんでした。
数日が過ぎ、私の中で違和感は増していきました。自室では視界の端に光が揺れるような現象が見られるようになり、よく知っているはずの家具の配置すら微妙に変わったように感じられることがありました。特に印象深かったのは、ベッドサイドに置いていたランプのスイッチの位置が、朝になるとちらりと動かされたかのように変わっていることでした。
ある夜のことです。眠れずにベッドに横たわっていると、ふと、誰かが自室の中を歩いている音が聞こえてきました。私はあまりに驚いて、すぐに体を起こして音のする方を見ましたが、何もいません。しかし、音はしばらく続いていました。そこで私は勇気を出して部屋の中を隈なく調べましたが、人が入り込んだ形跡は全くありませんでした。
それからというもの、私は異変をよりはっきりと感じるようになりました。夜になると決まって誰かの囁き声が聞こえるようになったのです。それも、不気味なことに内容は聞き取れないのですが、どうやら私の名前を呼んでいるような気がしました。恐怖を感じた私は、さすがに引っ越しを検討し始めました。
しかし、引っ越しの準備をする間にも、奇妙なことは続きます。ある日、郵便受けに手紙が一通届きました。差出人不明のその手紙には、丁寧な字で「戻っておいで」とだけ書かれていました。まるで誰かが私をこの場所に留めようとしているように感じました。
最終的に私がこの家を出る決心をしたのは、最後の奇妙な出来事が原因です。夜中に目が覚めて、隣の部屋から泣き声が聞こえてきたのです。それも、赤ちゃんのような小さな泣き声です。私の部屋は一人暮らし用のワンルームで、子どもがいるはずもありません。その時私は、ついに自分の存在するべきではないところから何かの影響を受けていると確信しました。
翌日、急いで引っ越し会社に連絡をし、数日中に新しい住む場所を見つけ、準備を整えました。この家を出る日、私は部屋を見渡しながら思いました。この場所は私にとって違和感を抱かせ続ける何かが潜んでいたのだろうと。それからは特に異常を感じることはなく、普通の生活に戻れましたが、心のどこかであの手紙のことを考えると鳥肌が立ちます。
以降私は、自分が感じた違和感について誰かに話すことも避けるようになりました。仲の良い友人には、「ただの引っ越し疲れだ」と説明しています。でも、本当のところ私は、何も説明しようのない空気感やズレをしっかりと体験したのでした。それは恐怖そのものではなく、私の周りの世界がほんの少しだけ、おかしくなっていたことの証拠だったのでしょう。
不思議なことに、あれから別れの手紙どころか、誰かが私を呼ぶ声も、もう聞こえることはありません。それが安心を与えてくれる一方で、一度感じた違和感が再び戻ってきたら、次こそどこに逃げればよいのかと、時折恐ろしくなるのです。でも、きっとこの体験は私自身への警告だったのかもしれません。日々の忙しさに追われ、何か大切な感覚を見失っていたことによる、自分への警告だったのではと。結局、私は今でも時折、ふとした瞬間に自分の周りに漂う異物感を探してしまうのです。何も見つからないことを祈りながら。