あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。月明かりがやけに明るく照らしていた、夏の終わりの夜だった。僕たちは友人たちと一緒に地元の山へキャンプに行くことを決めていた。山岳地帯の風景が美しく、よく晴れた空の下で気持ちの良い時間を過ごせると期待していたんだ。
僕たちは夕方に山に到着し、早速テントを張り、焚き火を囲んで食事をし始めた。仲間内の雰囲気は穏やかで、笑い声が絶えず響いていた。しかし、夜も更けてくると、不思議なことが起き始めたんだ。
まず最初に気づいたのは、風が急に止んだことだった。山の夜は冷え込むもので、普段は風の音が常に耳に残る。それが、ぴたりと止んでしまった。何かがおかしいと思った矢先、友人の一人、幸雄がトイレに行くと言って席を立った。
彼が戻らないことに気付いたのは、それから20分ぐらい経ってからだ。彼の名前を呼んでみたが、返事はない。少し心配になり、僕ともう一人の友人で探しに行くことにした。懐中電灯を片手に、歩き回ったが、幸雄の姿はどこにもない。
周りは静まり返って、月明かりがぼんやりと地面を照らしていた。その異様な静けさに、不安がじわじわと募ってきた。僕たちは声を張り上げて彼の名前を叫び続けたが、やはり答えはない。
キャンプ地に戻って、他の友人たちにも事態を伝えると、全員で手分けして彼を探し始めた。しかし、まったく手がかりがない。痕跡すら見当たらないなんて、異常だった。
夜が更けて、次第に焦りと恐怖が広がる中、一人の友人が「ここに居続けても仕方ない、山を下るしかない」と提案した。全員が同意し、急いで道を下りはじめた。
下山して最寄りの警察に駆け込むと、警察官たちは半信半疑ながらも、捜索を開始してくれた。しかし、結局彼は見つからなかった。あの夜以来、彼は行方不明のままだ。
それから一週間ほど経ったある日、僕の元に見知らぬ番号から電話がかかってきた。受話器の向こうから聞こえてきたのは、幸雄の声に似ている人のものだった。「僕だよ、幸雄だ。心配かけてごめん。」と伝えてきた。
「一体どこにいるんだ、皆心配してる」と返すと、彼はどこか遠い所から帰ってきたような、朦朧とした声で「もう大丈夫だから、少し会いたい」とだけ言った。
次の日、約束の場所へ行くと、見るからに疲れ果てた様子の幸雄が待っていた。だが、何かが違った。声や話し方がどこか不自然で、目つきもおかしかった。会話をしても、本当に彼なのかと疑問を抱かずにはいられない。
幸雄は、まるで別人のように変わっていた。彼がその後、どこで何をしていたのか、聞いても曖昧な返事しか返ってこない。「あれは夢だったのかもしれない」と言うだけだ。
後日、他の友人たちと再び集まることになった。幸雄も招いたが、彼はその場に現れなかった。そして、その次の日から彼の行方は再びわからなくなった。今度は本当に、消えてしまったのだ。
僕たちの思い出の中で、あの夜の出来事は一生忘れられないものとなっている。彼がどこに行き、何を見たのか、そして、もし戻ってきたとしても、本当に『あの幸雄』なのか、疑問は深まるばかりだ。
その後、もう山には行っていない。見えない何かが、僕たちをあの場所から遠ざけているような気がしてならないからだ。それでも、あの山から得体の知れない力が僕たちを時折呼んでいるような感覚が、心のどこかで静かに息づいている。