夜道に潜む不安と幻影

違和感

彼の足音は、静かな夜道をわずかに掠める風の音とともに響いていた。その日は晴れていながら、どこか翳りを帯びた月が冷たく光り、街灯の下に延びる影を闇に溶け込ませている。彼の名は康平。都会の喧騒から少し外れたこの住宅街に、彼は一人で住んでいた。

週末の夜でありながら、この通りは不思議なほどに静まり返っている。普段ならば犬の声や、道路を走る車の音が聞こえてくるのだが、今日はまるで世界が音を失ったかのようだ。「まあ、たまにはこんな静けさも悪くはない」そう思いながら、彼は夜の散歩を続けていた。

しかし、その静けさにはどこか妙な違和感があった。耳を澄ませば、小さなざわめきが彼に寄り添っているかのようだった。風に木の葉が揺れる音とも、人の囁く声ともつかぬそれは、康平の背筋を冷たく撫でた。

ふと立ち止まり、周囲を見渡してみる。誰もいないはずの道端、街灯の根元に、小さな影が佇んでいることに気づいた。それは、白いワンピースを纏った女の子だった。だが、彼女の顔は月の光にひび割れた陶器のように不鮮明で、表情を読み取ることができない。

「どうしたの?」彼は声を掛けた。しかし、女の子はまるで言葉を理解できないかのように微動だにしない。ただ、その視線だけは康平を注視している。視線が合った瞬間、彼は不快な何かが胸を掠めるのを感じた。その視線はまるで、彼の心の内を無遠慮に覗くかのようだった。

康平は再び歩き始めた。途切れた呼吸を整えようと試みながらも、背中を包む何かしらの重さを完全に振り払うことはできなかった。「ただの見間違いだろう」と自分に言い聞かせつつも、その違和感は浸食するように内側に染み込み続ける。

家に帰り着くと、彼はまずテレビをつけた。騒がしい音がこの不気味な感覚を掻き消してくれることを期待していた。しかし、テレビから流れるニュースの声はどこか空々しく、内容も記憶に残らない。無造作にチャンネルを変えるたびに、画面に映し出される顔はことごとく直視できないほどに不気味だった。

その晩、康平はいつになく不安定な夢を見た。夢の中、彼は同じ道を歩いていた。またあの女の子がそこに立っている。彼女の口元が微かに笑みを浮かべたように見えると、彼の周囲は急に暗闇に包まれた。冷たい汗が彼の背を流れ落ちる感触で、彼は目を覚ました。

翌朝、康平は重い頭を振って起き上がった。昨晩の出来事が夢であったのか現実であったのか、その境界があやふやなままである。それにもかかわらず、彼はいつも通りに仕事に向かう準備を始めた。しかし、鏡の中に映る自分の顔色がどこか冴えないことに気づき、不安を感じた。

通勤途中、彼はつい昨晩通った夜道のことを思い出していた。「やはり何かがおかしい」と。その場の静けさや女の子のことを思い返すと、胸の奥に何かが絡みつくように不安感が蘇る。電車の中で周りを見渡しても、乗客たちは皆、どこかうつろな表情をしていて、康平には彼らが透明のガラスの背後から眺めているようにしか見えなかった。

仕事を終えて再び夜道へと戻ると、まるで昨夜が繰り返されるかのごとく、あの不気味な静けさが彼を迎えた。康平は意を決して、わざとその場所を通り過ぎた。すると、再び女の子が姿を現した。同じ場所、同じ姿。

「君は一体誰なんだ?」恐る恐る声を掛けるが、女の子は相変わらず無言である。ただ、その無機質な視線のみが康平を射抜いてくる。その瞬間、はっきりとした違和感が彼を襲った。「この光景はまさに昨晩の再現だ」と。

再び家に戻った康平は、現実感を失ったような浮遊感に苛まれていた。何かが確実におかしい。彼は部屋の中を挙動不審に徘徊し、何かを見つけ出そうとしたが、結局何も見つからないまま夜が更けていった。

眠れぬまま、彼は再び夢を見る。それは現実の延長のような、いやむしろ現実が夢の延長であるかのように続く夢だった。目覚めた彼は直ちに考えを巡らせた。「もしや、自分自身が何かの罠に陥っているのではないか」と。その思考は、不快ながらも不思議なほどに納得のいくものだった。

日々が夢と現実の狭間で混濁し始めた頃、遂に康平は一つの決心をする。あの道を避けて帰ることだ。決してその女の子に会うことなく、別のルートで帰路に着けば、少なくともこの不可解な連鎖から逃れられるはずだ、と。

しかし、それでも何かが変わることはなかった。他の道を選んでも、そこのどこか些細な隙間から、彼は同じ女の子の影を垣間見ることになった。家路に着けば必ず、その無機質な視線が背後から彼を見つめているのだと感じざるを得なかった。

日常のすべてがある種の幻燈となり、彼の心に混乱をもたらした。周囲の人間たちがかける声や行動も、削ぎ落とされた何かを彷彿とさせるだけで、実体を伴わないものになっていた。

最終的に康平は、かつてそこにいた確固たる何かが、いつの間にか狂ってしまったことを悟らざるを得なくなった。もはやその異様な静けさが常態となった日々、彼は窓の外の夜空を見つめながら、その隙間に潜む何かを感じ取るのだった。

彼がその日新たな道を試みる度に、彼の背後にもう一つの影が増えている気がしてならなかった。それらの影は彼の心に微かに触れ、何かが始まるその瞬間を予感させていた。しかし、それが何なのかを彼自身も知ることはできなかった…。

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