それは数年前の夏の夜のことです。僕は友人のAと一緒に、とある地方の山間にある古い民家に泊まることになりました。Aは昔からの友人で、彼の祖父が住んでいたというその家はほとんど廃屋のようになっていましたが、周囲には湖や山が広がり、自然に囲まれた場所に位置していました。都会の喧騒から離れて、静かな時間を過ごしたいと思った僕たちは、ワクワクしながら車でその場所を訪れました。
家に到着したとき、建物は思った以上に老朽化していて、夕暮れの薄暗い光の中で見ると少し不気味な雰囲気がありました。しかし、今さら他に行く当てもなく、そもそもそれが目的で来たので、僕たちは特に気にしませんでした。
家の中は埃だらけで、家具も古く、まるで時間が止まったように感じられました。Aの祖父が使っていたと思われる古い写真や道具がいたるところにあり、どこかしら懐かしさも感じました。夕食を簡単に済ませ、夜になったところで僕たちは寝床を準備しました。電気はなんとか通っていたので、蝋燭の光と時折つける懐中電灯で何とか夜を過ごそうという計画でした。
寝る準備を整えた後、外の虫たちの声を聞きながら僕たちは話し込んでいました。Aは祖父の思い出話をしてくれて、彼がどれだけその場所を愛していたか語り、僕もそれを興味深く聞いたものです。そんな夜も更け、寝ようかと話していた時、家の周りで小さな音が聞こえてきました。
初めは風が作る音だろうと無視していましたが、次第にその音は明確に家の周囲を歩く足音に変わりました。「誰かがいるのか?」と思った僕たちは急に緊張し、静かに耳を澄ませました。時折、へたりとした木の軋む音が、確かに人の歩く気配を思わせました。僕たちは声をかけることもできず、じっとその足音を聞いていました。
足音はしばらく家の外を回っているようでしたが、突然ピタリと止まりました。僕たちの間に沈黙が流れ、一瞬、とてつもない静寂が押し寄せました。その時、不意に家の裏の方からまた音が聞こえました。今度は柔らかく、家の中を何かが歩いているような…
「そんなわけないだろう」と思いながらも、恐る恐る音のする方を見に行くことに決めました。Aと一緒に懐中電灯を持って、僕たちは音のする方へ向かいました。音は台所の方からしており、その音が近づくたびに、心臓が鼓動を速めているのを感じました。
台所に到着すると、音は急に止まりました。僕たちは恐る恐る懐中電灯で辺りを照らしましたが、何も変わったところは見当たりません。そこには古びた食器や使い古された家具が静かに佇んでいるだけでした。僕たちは気のせいだと思うことにして、その場を離れることにしました。
しかし、その瞬間です。背後から何かが風のように抜けていく感覚を覚えました。僕は驚いて振り返りましたが、何も見えませんでした。Aも同じ感覚を感じたようで、顔を見合わせました。二人とも恐怖を隠せず、早くこの場を離れたい一心で、その夜は一緒の部屋で寝ることにしました。
その晩は結局、ろくに眠れませんでした。僕たちは交代で寝たり起きたりしながら、窓の外の闇を見つめていました。何もできずに時間だけが過ぎ、夜が明けるのを待ち続けました。ふと眠りについたかと思えば、何かに囁かれるような感覚で目が覚めたり、また歩く気配がしたりと、不安な夜が続きました。
翌朝、薄明かりの中で目を覚ますと、昨夜の出来事が夢だったのではないかと思ったぐらい、朝の光は優しく感じました。それでも、僕たちはこれ以上ここにいるのは不気味に感じて、早々に帰ることに決めました。帰り支度をして、僕たちは車に乗り込みました。帰りの車中で、Aも僕も言葉少なでしたが、信じられないような体験をしたことだけは確かでした。
後で聞いた話ですが、その家付近では、夜になると何か見えないものが歩き回るという話がいくつかあるらしいです。そして、それはAの祖父が生きていた頃から存在し、決して害を及ぼさないが、不思議な現象として語り継がれているそうです。
あれからしばらくはその体験が頭から離れませんでしたが、今となっては、ただの思い違いだったのかもと思うことにしています。それでも、あの夜の不気味な体験を超えるものには二度と出会いたくはありません。普段は見えない何かが、確かにあの場所にはあったのかもしれないと、今でも考えさせられるのです。