団地の囁きと消えた男の謎

都市伝説

その話を初めて聞いたのは、郊外にある古びた喫茶店だった。夜遅く、友人たちと集まって四方山話をすることが常だった私たちは、いつものようにカフェオレを片手に、日常に潜む奇妙な出来事について話していた。街灯に照らされる雨の音、店内に流れる静かなジャズ。そんなシーンが、不思議な恐怖を引き立てていた。

その夜、話題の中心は「知人の友達が体験した」という恐ろしい出来事だった。話し手は、大学時代のサークルで知り合った先輩の一人、内田だった。彼は誰かが語ってくれるのを待っているように、静かにその話を切り出した。

「これ、俺の友達の友達が体験した話なんだけどさ」と、内田は言った。彼の低く少し緊張した声が響くと、私たちは自然と耳を傾けた。どこかニヤリと笑いつつ、内田はいつものように話を続ける。「その友達、名前は松下って言うらしいんだけど、郊外の古い団地に住んでいるんだ。物件は安く、しかも住人同士の交流が盛んなことで知られていて、一見何の変哲もない場所だったんだよ。」

松下はその古い団地に引っ越してから、頻繁に奇妙な体験をするようになった。最初は小さな音だ。どこからか聞こえてくる鈍い足音。それは夜中、部屋の中にいると、誰もいないはずの空間を歩き回る音として耳に届いた。松下は最初、それを隣人の生活音だと思っていた。しかし、その音は毎晩のように響き、次第に彼の部屋の中でのみ聞こえることに気づいたという。

二週間ほどが過ぎたある日、松下は仕事から帰ってくると部屋の異変に気づいた。何も触っていない電子レンジが、電源を切っているのにもかかわらずカチカチと音を立てていたのだ。そして照明がちらつき、まるで故障したかのように明滅を繰り返した。彼は電化製品の異常と考え、修理を依頼したが、技術者には何の問題も見つからなかったのだ。

「そして、ついにある晩のこと。松下が眠りにつく直前、その音はさらに異様さを増したんだ」と、内田は語気を強める。「耳を澄ますと、足音がひとつの語りかけのように変わってきた。か細く、そして掠れた声。それは言葉にならない言葉として、彼の耳元で囁かれたんだ。」

松下はすぐに起き上がったが、誰もいない薄暗がりの中では、ただ不気味な静寂が広がっているだけだった。彼は一種の夢でも見たのかと思ったが、不安は消えなかった。翌朝、彼はお祓いをしてもらうため、地元の神社に向かった。しかし、宮司には「この団地ではたびたび不思議な現象が報告されている」と言われるだけで、具体的な解決策を示されることはなかった。

それでも松下は何とかしてその現象を解決しようと、地域の住人に話を聞き始めた。すると、彼の住んでいる団地には、かつてそこで不幸な事件があったことがわかった。どうやら十年前、同じ部屋に住んでいた男性が、心を病み、家族を残して姿を消したらしい。その後も彼の姿は誰にも目撃されず、家族も行方を追うことができなかったという。そのことが住人たちの間で噂になっていたと松下は知った。

それからさらに一週間ほど経ったころ、新たな問題が彼を追い詰めた。それは、毎晩の囁きが具体的な言葉として聞こえ始めたことだった。「助けてくれ…」と。また、それとともに、彼は現実と夢の区別がつかなくなるほどの幻覚を見るようになった。どこまでも続く団地の廊下、その突き当たりにいる何者かが彼を呼んでいる。

その夜、ついに松下は決定的な経験をする。夢と現実が混ざり合う中で、その声に導かれ、寝ぼけたまま団地の廊下に出てしまったのだ。無意識のうちに声のするほうへ歩み続けると、行き止まりにある古びた一角にたどり着いた。そこには、今では誰も住んでいない、小さな部屋が一つあった。

彼がドアを開けると、濃い霧のような冷気がまとわりつき、そこにかすかな人影が見えたという。それは、消えた男性の姿そのものだった。松下は何も言えず、その場に立ち尽くし、人影がどこかへ消えていくのをただ見送るしかなかった。

翌朝、松下はすべての出来事を背に、団地を去る決意をした。彼の荷物は後日、友人たちが代わりに回収した。彼自身は二度とその場所を訪れることはなかったという。

「結局、その松下はどうなったのかは誰も知らない。でも言えることは、彼のような体験をした人は他にもいるかもしれないってことだ」と内田は締めくくった。話の余韻は長く、私たちはその夜しばらく言葉を発することができなかった。コーヒーカップの底に残った冷えた液体を見つめながら、ふと、自分たちの周りにもそんな出来事が潜んでいるのではないかと思ったのだ。

それは、誰にでも起こり得る、日常の写し鏡のような体験。都市の喧騒の中に溶け込み、静かに主張を続ける何かが、いつの日か私たちにも囁きかけてくるかもしれない——そんな思いが私たちを包み込み、恐怖の一片を想起させたのだった。

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