囁く家の悲劇

狂気

1.

午後の柔らかな日差しが差し込むリビングルームで、紗季は窓の外を見つめていた。彼女は最近、何度もこの場所に立ち、手を振りかざしてみることが増えていた。誰かに見られているような奇妙な感覚—それは錯覚だと思おうとしたが、それはまるで実体あるもののように彼女を取り囲んでいた。彼女は一度だけ振り返り、部屋にあった鏡をちらりと見た。そこには自分が映っているはずなのに、どういうわけか、その顔が他人のように感じられた。

2.

恵一は会社から帰宅すると、家の中の異様な静けさを感じ取った。紗季はいつも明るく、彼に話しかけてくれるはずだったが、その日、彼女はただ黙って窓に向かって立っていた。「紗季?」彼が声をかけると、彼女は一瞬だけ彼を振り返り、すぐにまた窓に目を戻した。しかし、その視線は窓の向こう側に焦点を合わせることなく、むしろ内側を見つめているようだった。「何かあったの?」と彼が尋ねても、彼女は何も答えなかった。

3.

近所に住む美智子は、数週間前から紗季の様子がおかしいことに気づいていた。毎日の挨拶もなくなり、スーパーで会ってもどこかうわの空だった。「家に問題があるのかしら」と思った彼女は、一度紗季を訪ねることにした。インターホンを鳴らしても応答はなく、仕方なく家の前を諦めて帰ろうとしたとき、不意に二階の窓から紗季が彼女を見下ろしているのに気づいた。しかし、その眼差しには何かぞっとするものがあり、美智子はすぐに目をそらしてしまった。

4.

紗季は、夜になるとますます不安定になった。彼女は布団に入って目を閉じようとしたが、耳元で囁くような声が聞こえてくるのを避けられなかった。「あなたはそれでいいの?」といった内容の言葉が、まるで自分自身から発せられるかのように彼女を責め立てた。寝室の壁には、闇が生きているかのように幾つもの影が動き、その中に何を見るわけでもないが、恐怖が波のように押し寄せてきた。

5.

恵一は、そんな紗季の変化に気づきつつも、自分自身もまた何かに追い詰められている感覚に襲われていた。仕事でのストレスがその原因だと考え、気に留めないようにしていたが、心の中の不安が次第に膨れ上がってきた。「紗季がおかしいのは、俺のせいかもしれない」彼は一人で考え込み、家に帰るのが怖くなっていた。それでも、愛している妻のために何とかできることをしようと、彼は必死に努力し続けた。

6.

ある日、とうとう恵一は決断を下した。「カウンセリングに行こう」と紗季に提案したのだった。しかし、その提案が返って彼女をさらに壊してしまうとは思いもしなかった。紗季は突然、激しい拒絶反応を見せ、「私はおかしくない!」と叫びながら涙を流した。彼はどうしていいか分からなくなり、彼女を抱きしめるしかできなかった。「ごめんね」としか言えなかったが、その言葉にも彼女は怯えるように身を震わせた。

7.

美智子はそれ以来、紗季の家で不穏な気配を感じることが多くなった。不意に立ち寄った日曜日の昼下がり、開いた窓から聞こえてきた囁き声に足を止めた。それはまるで多人が集まっているかのような、異様な声の重なりだった。しかし、誰もいるはずがないと確信していた美智子は、不安を覚えつつも一歩を踏み出せずにいた。彼女は、一度はこの恐怖を紗季のためと考えて追い払おうとしたが、姿の見えない恐怖の影がずっと彼女について回っていた。

8.

紗季は次第に現実と妄想の区別がつかなくなっていた。家の中にいると、いつも自分を見守っている視線を感じ、何度もその視線の正体を探そうとして周囲を見回した。「彼らが何を望んでいるの?」紗季は夫に問いかけたこともあったが、それが口先だけの冗談ではなく、彼女自身の中で燃え盛る疑念であることを理解してもらえなかった。

9.

最終的に、恵一はカウンセリングを受けさせるという強行手段に出た。しかし、その日、紗季は家から逃げ出した。一晩中彼女を探し続けても手がかりさえ見つからず、途方に暮れた恵一は家に戻るしかなかった。そこには、荒らされたリビングルームと、紗季が無記名で書き残したかのような不気味なメモだけが残されていた。「あなたも知っているはず」

10.

彼女の失踪から数日後、美智子は再びあの家から聞こえてくる声を耳にした。今度は明らかに紗季のもので、それに応えるように恵一の声が返ってくる。彼女は恐怖に震えながら、家に帰ろうと足を速めた。しかし、背後からの声に追われるような感覚が消えず、彼女は一人、暗闇の中で佇んでいた。数日後、彼女は意を決してもう一度家に足を運んだが、すでにそこには誰もいなかった。

11.

最終的な真相は、紗季の抱えていた精神的負担と、恵一の無自覚なまでに彼女を追い詰める態度がもたらした悲劇であった。恵一もまた、その後長らく失踪状態となり、二人は二度と戻らなかった。近所の人々はあの家を忌み嫌うようになり、やがて家全体が封印されることとなった。それでも時折、美智子はあの家から囁き声を聞くことがあるのだった。それは現実なのか、妄想なのか、彼女自身も知る由もなかった。

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