日常の喧騒がやわらぎ、夕暮れの冷気が静かに街を包み込む頃、彼女はいつも通りの帰り道を歩いていた。家路に続く細い小道には落ち葉が積もり、風が吹くたびにさらさらと音を立てていた。街灯の淡い光が地面に揺れる影を落とし、その影は彼女の心の不安をかきたてるかのように見えた。
しかし、その日は少しだけ違っていた。ふとした瞬間、彼女の背後から聞こえる足音に、胸がざわついた。振り返っても周りには誰もいない。だが、確かに足音は続いている。彼女は思わず足を速めた。足音もそれに合わせて速くなる。だが、顔を上げ、前を向くと、日常の景色はそこに変わらずあった。
彼女の住むアパートは古びた建物であったが、長年住んでいる彼女には不思議と愛着があった。鍵を開けて扉を閉めると、いつもなら安堵感に包まれるはずが、その日は違っていた。理由のない不安が彼女の心を侵食し、部屋の空気さえもどこか冷たく感じられる。カーテンを閉めるとき、不意に窓の外に人影を見た彼女は、慌てて視線を戻したが、そこには誰もいなかった。
気のせいだと言い聞かせながら、彼女は夕食を済ませ、テレビをつけた。画面の向こうでさえ、馴染みのニュースキャスターが繰り返す日常の報道を聞き流していると、不意に映像が乱れた。そして、一瞬、画面に現れたのは見知らぬ風景。幽玄な森の中にただ立ち尽くす少女の姿だった。すぐに映像は元に戻ったが、彼女はその少女の哀しげな眼差しを忘れることができなかった。
夜が更けるにつれて、外から風の音が強くなり、古びた窓枠がきしむ音が不気味に響く。ベッドに横たわっても、彼女の心は休まらず、そのまどろむ瞬間でさえ、あの足音が耳に蘇る。夢の中でさえ、彼女はその足音に追われ、逃げ続けていた。
翌日、これまでなら何の変哲もないはずの通勤路が、どこか見慣れぬ風景に変貌しているのに彼女は気づいた。歩道の舗装は剥がれかけ、街の活気は薄れ、通りすがる人々の顔はどことなく無表情だった。まるで全てが薄いヴェールをかけられたような違和感を覚えながら、彼女は駅へ向かった。
会社では、同僚たちが普段通りに朗らかに振る舞っていたが、彼女の目にはそれすらもどこかぎこちなく映った。メールボックスに届いた一通のメール。差出人は名も知らぬ人物で、その内容は短い言葉だけだった。「探さないで、でも逃げて」。その時彼女は、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた気がした。
帰宅時、再び足音が聞こえた。背後から、しかし振り返ることはしなかった。ただ、目的地もわからぬまま、足音に導かれるように彼女は歩き続けた。そして気づいた時、自分が森の中に立っていることに気づく。夢で見た、あの幽玄な森だ。そして目の前には、夢で見た少女が立っている。遠くで風が彼女の名前を呼ぶのが聞こえた。
少女が一言、「帰れないよ」と口を開いた瞬間、彼女は全てを理解した。それが何なのかは分からなかったが、彼女の日常は永久に失われてしまったのだと。帰路を失った彼女は、その後一度も見つからなかった。残された部屋には、開いたままのメールと、彼女の影を捕らえ続ける古びた窓だけが静かに時を刻んでいた。
彼女の居ない部屋は、ますますその異様な静けさを増し、まるで彼女が帰ることを待ち続けているかのようであった。風はなおも強く、部屋の中に響き渡るその音は、彼女の名前をまだ呼び続けているように感じられた。なぜなら、日常の崩壊は、そこに住む全ての者に影を落としているからだ。舞い戻ることのできない過去を思い描くことしか許されない彼女の影は、今もなお、その部屋をさまよい続けるのである。