私は、地方の小さな町にある古い民家に住んでいます。この家に引っ越したのは、ちょうど1年前のことでした。築70年を超えているという古民家で、風情がありながらもひどく年季が入っていました。しかし、都会の喧騒から離れ、静かな環境で暮らしたかった私にとって、その古ささえも魅力的に感じられたのです。
引っ越してきた当初は、あちこちから軋む音やヒタヒタと雨漏りの音が聞こえてくるくらいで、特に不安に感じることはありませんでした。ただ、ひとつだけ妙なことがありました。毎晩のように、家のどこかでかすかな女性の声が聞こえるのです。初めは風の音や家鳴りかと思いましたが、その声はどこか切実で、聞くたびに私の心に不安を呼び起こしました。
ある夜、特にその声がはっきりと聞こえた日がありました。その日は仕事で疲れていたこともあり、私は早く寝ることにしていました。布団に入ると、やはりあの声が耳に届きます。静寂の中、遠くから響いてくるように「帰りたい、帰りたい」と何度も呟くのです。その言葉を聞くたびに、なぜか涙がこみ上げてくるのを感じました。恐怖と同時に感じたのは、声の主がこの世に強い未練を残しているという、ほとんど確信に近いものでした。
翌日、私は町にある古書店で、この地方の歴史について書かれた古い文献を漁ることにしました。店主にわけを話すと、彼は少し考え込んでから、一冊の古びた本を取り出してくれました。それは、この家の過去について書かれたものでした。
なんと、この家はかつて若い女性が住んでいた家で、彼女は婚約者を戦争で失った後、自ら命を絶ってしまったというのです。彼女の名前は「咲子」と言いました。咲子さんの写真が一枚、その中に挟まれていました。悲しげな顔つきをしていて、その眼差しは今でも忘れられません。
それからというもの、私は夜になるたびに彼女の声を聞くことが怖くなりました。しかし、同時に彼女の訴えを何とかしてあげたくもありました。彼女の霊がこの世に未練を残し続ける理由を解明し、彼女が安らかに成仏できるようにしたかったからです。
ある晩、私は思い切って声のするほうへ足を運んでみることにしました。声は主に、家の奥にある、普段は使っていない古い茶室から聞こえてくるようでした。柱時計の音だけが響く薄暗い廊下を進み、手探りで茶室の扉を開けると、かすかな月明かりが畳の上に射し込んでいました。
茶室に足を踏み入れると、突然冷たい風が吹き抜け、私は彼女の姿をぼんやりと目にしました。そこには、惨めな顔をした若い女性の姿がはっきりと浮かび上がっていたのです。大きな瞳で私を見つめ、その口は何かを訴えるように小刻みに動いていました。しかし、彼女の言葉は音としては聞こえてきません。
私は恐怖に打ち震えながらも、彼女のために何ができるのかを考えました。手の中で冷たくしびれるような空気を感じつつ、「あなたのことを調べました。何か伝えたいことがあるのなら、教えてください」と静かに問いかけました。
その瞬間、彼女の姿は消え、部屋の静けさだけが残されました。しかし、不思議なことに、私の心の中には彼女の声がはっきりと響きました。「私を思い出してほしい。そしてここから解き放って」と。彼女の願いは、忘れ去られることなく彼女の存在を誰かに記憶していてほしい、そんなことなのかもしれません。
その後、私は咲子さんの物語を町の人々に伝える活動を始めました。町の人々は彼女の悲しい過去を知り、彼女の記憶を大切にするために協力してくれました。やがて町の年一回の祭りの中で、彼女のための小さな祈りの儀式が行われるようになりました。
そして、その頃からでしょうか。夜になると聞こえていた女性の声が、次第に遠のいていったのです。彼女がこの世に残した未練は少しずつ解け、安心してその先に進めるようになったのでしょう。今では、その古民家の夜は静かで穏やかなものになりました。
私にできたことは小さなことだったかもしれませんが、それでも彼女の求めていたものに少しは応じられたのではないかと感じています。そして何より、この体験を通して、私自身もまた、自分の人生に大切な何かを学ぶことができたように思います。生きること、そして死すべき時を迎えること。その奥深さに恐れを感じつつも、理解が少しだけ進んだのではないかと思うのです。
この出来事を振り返るたびに、私はあの冷たい月夜の中で見た彼女の目を思い出します。その眼差しは、今もなお私の心に深く刻み込まれているのです。