ある晩、私は幼馴染の亮一と再会するために、久しぶりに地元の町に足を向けた。彼とは小学校以来の付き合いで、長い間連絡を取り合っていなかったが、先日ひょんなことから彼がこの町に戻ってきたと知り、一杯飲もうと誘われたのだ。私は懐かしさに胸を躍らせながら、昔よく行った小さな居酒屋へと向かった。
店の扉を開けると、懐かしい焼き鳥の匂いが私を迎え入れた。店内は昔と変わらず、木製のカウンターと雑然としたテーブル席が並んでいる。奥の座席に目を移すと、亮一が手を振って合図をしているのが見えた。
「久しぶりだな、元気だったか?」と彼は笑顔を見せたが、その顔にはどこか影が差しているように感じられた。私は彼の隣に座り、一杯目のビールを頼むと、思い出話に花を咲かせた。しかし、話が進むにつれて、私は次第に違和感を覚えてきた。
亮一の話す内容が、どこか現実とズレているように思えるのだ。昔の遊びのエピソードを語る彼の口ぶりは、生々しく、まるでつい昨日の出来事のように鮮明だ。だが、私の記憶とは微妙に不一致がある。たとえば、彼が語る走り回った公園の場所や、いたずらをした先生の名前など、細部が捻じ曲がっているのだ。
「覚えてないのか?あの時、君が先頭に立ってさ…」と言う亮一に、私は曖昧に笑って頷いた。なぜなら、彼の言う「その時」私はそこにいなかったと記憶しているからだ。いや、いなかったはずなのだが、なぜか否定することがはばかられた。
ビールを何杯か重ねるうちに、私はこの違和感を正すべく、思い切って彼に問いかけてみた。「本当にそれ、俺が一緒だったのか?」
亮一は少し驚いた様子で私を見つめ、やや間を置いてから黙ってコップを傾けた。「あぁ、そうか。いや、お前じゃなかったかもしれない。でも、あの時のことはよく覚えているんだ」
その声には、どこか自信が揺らいでいるような気配があった。会話の流れが変に途切れた空白を埋めるように、店内には他の客たちの笑い声と途切れがちな音楽が漂っている。しかし、私はその笑い声の中に些細な不協和音を感じ取った。それは人間のものではないような、歪んだ音だった。
午後も深くなり、店を出る頃には、私はますますその不明瞭な不安に囚われていた。家路に着くために亮一と共に駅前を歩くが、彼は何かを思い出したかのように立ち止まった。
「急に思い出したんだけどさ、この裏通りに面白い店があるんだ。一緒に行ってみないか?」
彼の頼みに、私は首を縦に振った。特に行き先を決めていたわけでもないし、この後に予定があるわけでもなかったからだ。しかし、内心では不安が増していた。何かがおかしい、何かが違う。その思いが、ふっと頭の奥で囁いた。
路地裏の店は、古ぼけた看板が微かに輝いているだけで、一見して普通のバーのように見えるが、立地といい、入口の佇まいといい、どうにも不気味と言わざるを得なかった。何とはなしに、一瞬だけ躊躇ったが、亮一の誘導に従い扉を開けた。
中に入ると、異様に静まり返っていた。その沈黙は、言葉を奪うほど圧倒的で、耳の奥にこびりつくようだった。店内は薄暗く、目を細めないと周囲を認識することもできない。一瞬、逆に明るすぎるのではと思うような白い光が、目の前に広がった。
「ようこそ」とは、まるでどこかの通り魔のような笑顔を浮かべた店主らしき男。彼と亮一はなぜか親しげに話を始めたが、私はただ黙ってその光景を見守るしかなかった。不思議なのは、そのやりとりが私の存在を完全に無視し続けていたことだ。
まるで、私はそこにいないものとして扱われているかのように。そんなふうに感じた瞬間、内なる寒気が背筋を伝って走り抜けた。その感覚を振り払うかのように思わず目をそらし、居心地悪く立ち尽くしていたが、やがて亮一が「こっちだ」と合図してくれた。
私たちは座席に通された。彼は再び、昔話を始めたが、それらの話もやはり私の記憶とはどこか異なっている。話を盛り上げようと演じているのだろうか?
飲み物の注文が入るが、そこで店主が差し出してきたグラスに目を留めた。その内部で揺れる液体の異様な色合いに、視線を奪われる。まるで、すべての色が抑えられ、抜き取られたかのような無彩色。しかし、それを受け取った途端、奇妙な考えが私の心を過る――これはまるで、忘れ去られた記憶の味だ。
亮一は楽しげにそれを飲み干していくが、私にはその一口さえも恐ろしく感じられ、ぎこちなく口をつけては彼の顔色を伺った。すると、彼の瞳に、一瞬だけ異様な光が宿ったように見えた。そのどこかで見覚えのある――いや、それこそ数時間前に、あの居酒屋で向けられた視線だ。
一体、この男は本当に亮一なのか?その疑問が、じわじわと現実味を帯び始める。何かがおかしい、決定的に。だが、その何かが解明できないままでいるのが余計に恐ろしい。私は席を立ち、空気を入れ替えるように呼吸を整えようとした。
「どうした?」彼が尋ねてくる。
「ちょっと…少しだけ、外の空気を吸ってくるよ」と私は努めて平静を装い答えた。
店を出て、冷たい夜風を受けると、わずかに心が落ち着く。しかし、背後の扉が閉まり、鋭くリセットされるかのように響き渡る。振り返ると、なぜかその店が存在していなかった。
見間違いか?夢ではないか?再度確認しようと、私は辺りを見回したが、やはり店らしきものは影も形もない。ただ、静かな夜の路地だけが私を取り囲んでいる。どうにも頭の中で整理がつかず、そのまま立ち尽くすうちに、再び不安が全身を駆け巡る。
すると、不意に後ろから亮一の声が聞こえた。「どうしたよ、置いていくなって」
振り返るとそこに彼が直立不動で立っていた。私は息が止まりそうになりながら、いくつもの混線した思考の中で、彼に近づくべきか、この場を去るべきかを考えた。
「大丈夫かよ、変なやつだなあ」と彼が続けるが、その声もどこか心のこもっていない響きに思える。「みんなお前のことを覚えてるんだぜ?忘れられるわけないって」。
その言葉の端々に、冗談めかした響きがあるにもかかわらず、重苦しい空気が漂う。 ふと気づくと、彼の影が、今日一日の中で何度も目にしたものではなく、私自身の影に寄り添っているように感じた。
そこにいるのは誰?私と亮一の関係は?
その問いの答えは今も私には見つからない。それでも心の片隅には、恐怖以上に、この悪夢のような日々がいずれ思い出へと変わるのかという疑問だけがこびりついている。
私の中に刻まれた、この「何かがおかしい」という影。その真相を知る日が来るのだろうか。それさえも、今は漠然とした恐れの中に沈み込んだままだった。