白衣の科学者たちが行き交う、白く冷たい実験室の中で、彼は目を覚ました。何もかもが眩しく、耳鳴りと共に覚める夢の中にいるようだった。目を凝らし周囲を見渡すと、そこはまるで映画の中の研究施設のようだった。無機質な金属製の家具、無数の機器が整然と並べられ、どこからともなく聞こえる機械音が神経を逆撫でる。床は冷たく、彼の頭は混沌とした不安に包まれていた。
彼、田口祐はここで何をしているのか、その記憶を掘り起こすうちに、自らの名前すらが危うく感じられる。しかし、その疑問は長く持ち続けられなかった。突然、ドアが開いた。
「おはようございます、田口さん。」
柔らかながらも冷ややかな声が響く。その声の主は、研究者らしい風貌の男――年の頃は四十代ほど、眼鏡の奥に光る瞳は鋭く、余計に彼を不安にさせた。
「あ……あなたは?」
「私はこのプロジェクトの担当者です。あなたの手術は成功しました。あなたは新たな一歩を踏むこととなるでしょう。」
「手術……? 何のことですか?」
祐の声は震え、心拍が上がるのを感じた。
「あなたは自ら志願したのですよ。この画期的な試み――人の能力を医学的に向上させるプログラムに。」
その言葉を聞くと、祐は一瞬の記憶の閃きを手繰り寄せた。確かに、彼は何らかの決断をしたはずだった。だが、なぜそんな重大なことを……
彼は朦朧としたままの頭で、その研究者の話を必死に聞こうとした。
「私たちは人体の構造を根本から見直し、より効率的に、強く、素早くするための研究を続けてきました。そしてついに、その成果が実を結んだのです。」
研究者の言葉は明快だったが、その背後に隠された驚愕の真実を彼は感じ取った。祐の腕に視線を落とすと、そこには奇妙な刺し傷が無数に広がっていた。針を刺された痕跡だ。
「ああ、それですか。気にしないでください。必要な処置の一部ですので。」
その説明は、彼の恐怖を和らげるどころか、さらに煽るものだった。自分が普通の人間でなくなったのだと、自覚させられる一瞬だった。
「あなたはもう、元のあなたではないのです。我々が施した変革のおかげで、あなたの体は新たなステージに到達しました。」
祐はその瞬間、逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、足はまるで鉛のように重く、動けない自分に苛立ちと無力感が押し寄せた。
「真の力が開花するまでには時間がかかります。だが、それはすぐに訪れるでしょう。」
その言葉に、彼の心奥底に潜む未知のものへの畏怖が再燃する。もし自分の中に眠る何かが目覚めたとき、それは果たして自分の手に負えるものなのか――。
数日が経つと、田口は変わりゆく自分の身体に嫌でも気づかされる。視界が一層鮮明になり、通常の人間ならば耐えられないであろう速さで走ることができる。その変貌は、昨日までの自分とは異なる存在を形成し始めていた。だが、その異変は身体の表面に留まらなかった。
ある夜、夢か現か分からぬまま、彼の意識は白い部屋の向こう側へと彷徨った。薄明かりの中、彼は鏡を見つめる。だがそこに映るのは自分の顔ではなかった。目は黒く染まり、肌は無数の縦筋が走り、どこから歪めばそのようになるのか想像もつかない異形の姿だった。
その鏡に向かい立つ自分自身との対峙――それは彼の理性を崩壊させる限界点だった。叫び声を上げようとしたが、喉の奥に張り付いた恐怖で声は出ない。もはや自分は人間でないと、本能が警鐘を鳴らした。
そして、その夜のうちに彼の心を掻き乱す更なる事実が待ち受けていた。自身の変貌に怯えながらも、夜の静寂の中で漏れ聞こえる声があった。それは実験室の壁越しに聞こえる、また別の声だった。
「……もうすぐだ。我々の成果は、ついに世に出る。」
機械の唸り音に混じって、人々の歓声がどこかで響く。だがその中には、祐が耳を澄ませたとき、微かな苦悶の声も絡んでいた。そして彼は気づく。自分以外にもこの計画によって犠牲になった者たちがいるのだ、と。
次の日、彼は行動に出る決意を固めた。自分がこのまま正気を保つことはできない。だが、もし自分がここを出られたなら……もしこの恐怖と狂気の連鎖を絶つことができたなら……
彼はその手法を探るべく、密かに施設内を探り始めた。分厚い扉、そして電子ロックに施された世界は、簡単に彼を解放する気はなさそうだった。それでも祐の新しい能力は、通常のそれを遥かに凌駕していた。
ある夜、彼は研究施設の奥深くへ進入した。そこには、他にも多くの「被験者」が存在することを、彼は知った。様々な筐体の中で眠る彼らの姿――それはまるで一群のパペットのようで、操り人形が糸を待っているかのようだった。
一人ひとりの顔が、彼の心に鉛のようにのしかかる。このままでは、彼らもまた自分と同じように、やがては人ならざるものとなる運命なのか?祐は急いで彼らを解放しようと試みたが、そのとき、背後に人影が立つのを感じた。
「やはり、あなたは一番の出来だ。」
それはあの研究者の声。祐は振り向きざまに、その手を振り払おうとするが、その行動はすでに読まれていた。薬剤が吹き付けられ、意識が朦朧とする中で、彼は再び暗い無意識の淵に沈んでいった。
朝が訪れたとき、再び彼は目を覚ます。それは手術台の上だった。もはや何も怖れるものはない、すべてを失った彼は、ただ無感動にその結末を受け入れる心境だった。
「さあ、次のステップに進みましょう。」
研究者の声は、いつものように穏やかで何事もなかったかのようだ。しかし、田口祐はその先に待ち受ける未来を拒み、その抵抗を全身で示した。
だが、再び意識がかすむ中で、これ以上の抗いは無力であることを悟らされる。彼の中の何かが変わり果てていく過程に身を委ね、祐はやがて静かに目を閉じた。
その後、彼が目覚めることはなかった。だが、別の形で目を開ける者たちがいた――彼の意識を継ぎ、人の姿に仮初の命を持つものたち。彼らはまた新たなる実験の始まりを知らしめるために作られた、人体実験の産物たちだった。
果たしてこのサイクルはどこで終わるのか、その行方は誰にもわからない。恐怖と希望が交差する場所で、科学はさらなる答えを求め続けるだろうか。あるいは、いつの日か、誰かがその輪を断ち切るのだろうか。全ては静寂の中に消えていった。