まだ陽が沈みきらない午後の薄闇が辺りを包み始める頃、響子は静かに家のドアを開け、廊下を通り抜けると見慣れたリビングのソファに腰を下ろした。灰色のカーテン越しに僅かに差し込む夕日が、室内を淡いオレンジ色に染めていた。その時、不意に頭の中で何か囁くような声が響いた。響子は一瞬立ち上がり、後ろを振り返るが、当然そこには誰もいない。不安をかき消すように額を押さえ、彼女は再びソファに座る。
響子は一人暮らしを初めてからというもの、妙な孤独感に苛まれる日々を送っていた。都会の喧騒から逃れ、静かな生活を送るために選んだこの町は、彼女に平穏を与えてくれるに違いないと信じていたが、日を追うごとにその静けさが彼女の心をじわじわと蝕んでいった。
それはまたしても、彼女が覗き見た夢から始まった。夢の中で、響子は見知らぬ街を一人歩いていた。街並みはどこか古ぼけ、不気味なまでに静まり返っていた。誰もいないはずの道から声が聞こえては消え、彼女を不安にさせた。それはまるで現実のように生々しい感触を伴い、目が覚めた後もしばらくその感覚から抜け出せなかった。
しばらく不安に過ごしていたが、ある日彼女はその夢の街が実在することを確信する。通りの看板や建物の配置、すべてが彼女の中で明確に記憶されていた。その街の名は「久遠町」——どことも知れぬその名が脳裏にこびりついて離れなかった。
夢の中の街と同じ名を持つ現実の場所があるのかを調べることに決め、一週間かけて散々調べた結果、ようやくそれを見つけた。しかし、それは古い地図にのみ記載されている廃れた町だった。
行くべきではないと頭の片隅で囁く声があった。しかし彼女はその声に抗うように、その町へと向かうことを決めた。その決意が、彼女の精神を蝕んでいくきっかけとなるとも知らずに。
響子がその町に足を踏み入れた瞬間、何かが彼女を包み込むのを感じた。それは夢で見た光景と寸分違わぬ街並みだった。さびれた商店、空っぽの窓から覗く廃屋たち。響子は何か形容し難い既視感に襲われながら、ふらふらとその町を歩き始めた。
やがて、一軒の古い喫茶店へたどり着いた。店内に入ると、錆びついたベルの音が静かに響いた。中は薄闇に包まれていたが、奥のテーブルには、誰かが座っているかのように椅子が引かれていた。恐る恐る近づくと、やはり夢で見たあの場所と同じだったことに気づき、彼女は恐怖に震えた。
その時、再び頭の中で囁く声が聞こえた。それは彼女に考える隙を与えず、次第に現実と妄想の境を曖昧にしていった。響子はその声に従うようにして、テーブルに座った。そこには一冊の古い日記が置かれており、彼女はそれを開いた。
手記には、狂気に駆られた人物の、現実と幻影が入り混じった日々が綴られていた。驚くべきことに、その中に記されている主人公が、自分自身のように思えて仕方がなかった。響子はその日記の文章に惹き込まれ、ページをめくることを止められなかった。
「君はもうすぐ、僕たちと一緒になる」
そんな文が、不意に現れた。まるで彼女を待っていたかのように。響子はその場から動くことができず、ただひたすらその文を見つめた。
彼女はその後、喫茶店を出て町へと戻る。しかし、その瞬間から響子の現実は完全に狂い始めた。街の住人のいないはずの通りで、彼女は度々影を見て、何者かに見張られているような感覚に襲われるようになった。
音の無い街に響く足音。響子は振り返るが、そこには誰もいない。しかし確かに“何か”の存在を彼女は感じ取っていた。
次第に日々の精神の均衡を失っていく中、響子はかつての日々へと戻ることができなくなっていった。家に帰ることも、日常生活を過ごすことも、絶えず付き纏う不安に押し潰されそうになっていた。そして、彼女は何度も久遠町へと足を運んでは同じ店を訪れては、日記を読み漁り続けた。
「久遠町の囁きが、今、君を支配している」という一文によって、彼女は完全に心を解き放ってしまった。そして、幻覚と現実が交錯するその場所に心を奪われた響子は、もはや夢の中でしか生きることができないことを知ってしまった。
遂には、彼女の姿を現実の世界から探し出すことは叶わなくなり、ただ風に消え行く囁きと共に、久遠町はまた静寂を取り戻すのだった。
ある者はこう語る。久遠町に迎えられた魂たちは、その静けさの中で永遠に囚われ続けるのだと。しかし、真実を知る者は誰一人としていないのだった。現実の何処にその町が存在するのかさえ、確かめる術はないのだ。唯一残されたのは、不気味なほどに地図に記された「久遠町」の名だけであった。