私は30代後半の普通の会社員だ。普段から特に怪異現象に興味を持っていたわけではないし、霊感が強いとも思ったことはない。だが、あの晩に体験した出来事は、今でもはっきりと心に焼き付いている。
それは数年前、某企業に勤め始めて間もない頃の話だ。仕事の関係で地方都市へ引っ越すことになり、私は一人暮らしを始めた。賃貸したのは築年数がかなり経った古いアパートで、外観も内装もどこか陰鬱な雰囲気を漂わせていた。しかし当時の私には、家賃が安いことの方が重要だった。
仕事が忙しい時期で、毎日帰宅は夜遅くだった。ある日のこと、疲れ果てて帰宅し、シャワーを浴びてすぐ寝ようとしたその時、何か視線を感じた。寝室でパジャマに着替えている時にだ。それも、部屋の隅っこから誰かがじっと見ているような、居たたまれない視線だった。
だが、部屋には当然ながら誰もいない。疲れているせいだと自分に言い聞かせ、その晩は早く寝ることにした。だが、問題はその日の晩から始まった。
真夜中、何の前触れもなく目が覚めた。ふと見ると、真っ暗なはずの部屋の隅に何かがある。蛍光色のドットのようなものが、ぼんやりと暗闇に浮かんでいる。それが何なのか、どうしても理解できなかった。すると突然、それらのドットは人の形を成すように動き出し、私の方にじわじわと近づいてきたのだ。
「なんだこれ?」その時の私の心境は恐れと混乱でいっぱいだった。恐る恐る電気を付けたが、そこには当然ながら何もなかった。確かに見たはずなのに何もない。そんなことが度々起こるようになっていた。
翌日、同僚にそれとなくこの話をしてみた。すると、思いもよらぬ励ましの言葉が返ってきた。「ああ、そのアパートか。あそこの階に住むと視線を感じるって噂、昔からあるらしいよ。」
そんな馬鹿な。怪談やホラー映画の中だけと思っていたことが、まさか自分の身に起こるとは、どうしても信じられなかった。しかし、その晩もまた、私は何かに見られている気配を強く感じ、再び例の光の点々が現れるのを目撃することになった。まるで決まった時間に現れるかのように、その現象は毎晩起こり続ける。
ある晩のこと。私はとうとうその光の点々に触れる勇気を振り絞ることにした。いつまでも怯えてばかりじゃ、自分の生活に支障が出る。そう思ったからだ。点が漂うように動く場所まで静かに近づき、手を伸ばしたと瞬間、それはふっと消えた。
その瞬間、体に異変が起きた。まるで重しを体に乗せられたかのような重苦しい感覚。そして耳元には何か低いうなり声のようなものが響き渡った。それは人間の声ではなかったが、確実に何かの訴えを感じさせられるものだった。
「早く出て行け。」
その声がそう言っているように聞こえた。にわかに信じられなかったが、それと同時に、ここにい続けてはいけないという思いが胸中に強く湧いた。その晩、私はあまりの恐怖に居間で震えながら夜を明かした。
次の日、私はすぐに上司に直談判し、転居を申し入れた。事情は曖昧にはぐらかしたが、ここでの生活はもう無理だと思ったからだ。幸運なことに、その話を真剣に受け止めてくれた上司のおかげで、私はすぐに別の住居を探すことができた。
それから数週間後、私は新しい部屋に引っ越した。そこでは例の恐ろしい出来事は一切起こらず、ようやく平穏な日常を取り戻すことができた。しかし、あの古いアパートで過ごした短い間の出来事は、今でも私の心に深い影響を与え続けている。
あのアパートには何がいたのだろうか。何故、私だけがそれを目撃してしまったのだろうか。霊感や怪異に縁が薄いと思っていた自分だからこそ、あの出来事は恐怖以上の何かをもって私に刻み込まれた。それは、現実の中にも説明しようのない謎と暗部が潜んでいるということを思い知らされたからである。
今でも仕事であの区域を通るたびに、アパートの方を無意識に見てしまう自分がいる。しかし、二度とあの場所に足を踏み入れようとは思わない。私にとって、あの出来事は生きる上での一つの忌まわしい教訓となったのだ。それは、日々の生活がどれほど平凡であっても、どこかに異界への扉が潜んでいるかもしれないという冷ややかで無視できない現実である。