「狂気の館で消えた男」

猟奇

雨が降る夜だった。街灯の灯が湿った路面に反射し、蝋のように揺れる光が暗闇にかすかな希望を垣間見せる。冷たく湿った夜気が肌を撫でる中、一人の男が通りを歩いていた。彼の名は田代健一。粗野でありながら漂う優雅な雰囲気、しかしその瞳には底知れぬ深淵が宿っていた。

彼の目的地は廃墟となった古い館。この館には、血塗られた歴史があると噂されていた。健一の脳裏には過去の悪評など一切気にかけぬ様子が浮かぶ。彼はこの地で何を見つけようとしているのか。彼の足取りは次第に確固たるものとなり、彼の心に巣食う何かが暗闇に滲み出しているかのようだった。

館の入り口に立つと、彼はポケットから錆びついた鍵を取り出した。その残響が静寂の闇を打ち破る。扉が軋む音と共に、男の過去と欲望が開かれるようだった。館の中は朽ち果てているが、無秩序に散らばった家具の数々がかつての栄華を語っているように思える。

彼は言葉では説明しがたい欲求に駆られ、館内を彷徨う。時折、月明かりが割れた窓から差し込む断続的な光が、彼の影を壁に投げかける。影は闇と光が交錯する中で形を変え、人の形を成したかと思えば、たちまちに消える。その度に彼の心には不安と期待が入り混じった感情が押し寄せる。

彼は館の中心にある大広間へと歩を進める。そこは圧倒的な空虚感が支配する。だが、その冷たさは彼の心には違和感なく溶け込んでいった。彼の目は、広間の真ん中に置かれた古びた木製の椅子に釘付けになる。その椅子は、まるで誰かが訪れを待ち続けていたかのような気配を漂わせていた。

侵食された心を抱えながら、健一はふらりと椅子の傍に近づく。彼はその上に何かが蠢くのを感じた。それは過去の亡霊か、それとも己自身の幻影か。彼は躊躇いもせず、その椅子に腰を下ろす。次の瞬間、彼の中で何かが弾けるように震えた。

彼の脳裏には無数の光景が浮かび上がる―血に染まった白のドレス、壊れたピアノの音色、泣き叫ぶ声。彼はその悲劇の中心に立っている自分を幻視し、その心は狂気の淵へと急速に没落していく。彼の手は自ずとそのドレスをつかみ、破り、払うのだ。破れた織物を裂く音が、やがて彼の耳には波のように押し寄せてくる。

それは一瞬の静寂の後、響き渡る断末魔の叫びに変わった。それは彼自身の声――彼が愛した筈の人々の声――否、彼が手にかけながらも愛し続けた者たちの声がこだまする。彼は掻きむしる。この静寂の中で、自らを救う手立てを求めて。彼の理性は次第に浸食され、肉体は破壊の欲望に忠実に従った。

血の色と腐臭が混じり合った空気が彼の喉を焼く。彼の手が触れたもの全ては地獄の炎に包まれ、彼の行為をさらに狂気の淵へと追いやる。彼は意識を失うまで裂け目を生む。鼓動が止むことなく耳を打ち続ける中で、彼は自らの本性を悟る。疲弊したまま彼は椅子にもたれかかると、その口からは幾重にも重なる息が繰り返し漏れる。

館の壁に染み込んだ彼の存在は、彼を呼び戻す方法も忘れさせた。存在の意味も、狂気の源も。彼自身が消えゆく中で、ただ狂気だけがその場に留まった。

翌朝、辺りに住む者たちは、その館から立ち上る不気味な硝煙に触れ、恐怖の念からか、誰も近寄ることをしなかった。彼の身体で刻まれた悪夢の痕跡だけが、この地に彼の生を証明することは無かった。ただ、恐怖と戦慄だけがその静寂に包まれ、彼の名をもみ消すのを心から願っているかのようだった。

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