夜の帳が降りると、田舎の小村は深い静寂に包まれる。遠くの山々が黒い影となり、月明かりが淡く照らす田んぼのあぜ道に差し掛かると、まるで別の世界に足を踏み入れたかのような感覚に囚われる。そんな夜更け、村の者たちは決してあぜ道を通らぬように言い伝えられてきた。月夜の晩には「あの者たち」が出るからだ。
村の外れに住む青年、タケルはその言い伝えをどこか半信半疑で聞いていた。村の老人たちは、無数の妖怪の物語を夜な夜な語り継いできたが、タケルはそれをただの迷信だと思っていた。しかし、その夜、彼は初めてそのあぜ道を一人で歩くことになった。
家族を病で亡くし、独りぼっちになったタケルは、なりゆきで村の離れた納屋に眠る古い収穫機を取りに行くことになった。虫の音が耳元を囲み、冷たい空気が頬を撫でる。彼は月光に導かれるように、あぜ道を進んでいった。
途中、彼は異様な気配を感じ、足を止めた。風もないのに、田んぼの稲がざわざわと揺れている。心臓が高鳴るのを感じながら、彼は周囲を見渡し、そのとき見たものに目を疑った。
淡い月光の下、生い茂る稲の間に、白く光る人影が立っていた。その姿はぼんやりとしており、確かに人の形をしているが、どこか異質だった。タケルは無意識に目を凝らし、暗闇になじませると、その姿が次第に明らかになってきた。長い髪が風もないのに揺れ、すべるように動くその者の目が、真っ直ぐにタケルを見つめている。
心臓が胸を打つ音が頭の中に反響する。タケルは逃げ出したいという衝動に駆られたが、その時、ふと頭の片隅に聞いたことのある伝説がよぎった。「夜歩く白い者、それはお面の如き無表情と不可解な微笑を持つ」と。
恐怖にすくんだ足をなんとか動かし、タケルはその白い人影から逃れようと足を速めた。しかし、稲の間に消えたかと思ったその影は、次の瞬間、彼のすぐ目の前に現れた。驚愕と共に、彼はその者の顔を見上げた。無表情の中に微笑みが浮かぶその横顔には、確かにこの世のものではない冷たさがあった。
「あの者たち」は、彼を試すように、一歩一歩後ずさるごとに辺りの風景を変えていった。米俵のような怪しげな塊が次々とあぜ道に現れ、その上に何かが乗っているのが見えた。目を凝らすと、奇怪な面を被った小さな者たちが驕り高ぶるように嗤っている。
「帰れ…ここはお前の来るところではない…」タケルは白い者の声を聞いたような気がした。その不快で冷ややかな声は、まるで風に乗ってどこからともなく聞こえてくるようだった。
逃げ場所を探し求め、辺りを見渡したが、既に道は影に消え去り、彼はどこにいるのか見当もつかない。ただ、月に照らされた稲の葉だけが変わらずそこにあった。恐怖と絶望に塗れたタケルは、その場に崩れ落ちた。
だが、その時、稲のざわめきに混じってどこか懐かしい旋律が風に乗って聞こえてきた。それは、母が生前、よく子守歌として唄ってくれた歌だった。タケルの胸の奥に眠っていた記憶が呼び覚まされ、彼はふと立ち上がる勇気を取り戻した。
彼はその旋律を頼りに歩き出した。稲の間を進むごとに、「あの者たち」は少しずつ形を失い、次第に夜の闇に溶け込んでいった。タケルは、母の歌を心の中で繰り返し、やがて夜明けに達した。
朝日が村を照らし始めると、彼は再び知った場所に辿り着いていた。昔からよく通ったこの道、でも昨夜の出来事は、確かな現実という記憶として彼の中に残り続けた。彼は振り返り、再び夜が訪れることへの恐れと、そこに立ちはだかるであろう妖怪たちの姿を心に刻みながら、ゆっくりと村へ戻っていった。
それ以来、タケルは月夜の晩にあぜ道を歩くことはなくなった。村人たちも、彼から聞く不思議な体験談に耳を傾けるようになり、再びその言い伝えを守り続けている。そして誰もが知っている。月明かりが田を照らす晩、稲の間には「あの者たち」がいることを。彼らの冷ややかな囁きと微笑に、もう決して近づくことはしないのだと。